プロジェクトS 第3章 |
「耕して天に至る」裸の島」訪問記 作 平野 容子 |
映画「裸の島」のオープニングシーンに現れる この言葉「耕して天に至る」は、誰が言い始めた言葉なのだろう。 そして 本当はどんな意味があるのだろう? 6月23日に「新藤兼人さんの90歳を祝う小さなコンサート」を うたの学校で行った。 その打ち上げの席で、 インタビューをつとめた佐々木さんが 「裸の島ツアーを組まにゃあいけんね。」(たしかこんな言い回し)と言った。 「裸の島」はもちろんのこと 瀬戸内海の島そのものにも思い入れのある私は、即座に「行く 行く。」と同意した。 そしてなぜか同意したのは 私一人だった。 この2002年の一学期が異常な忙しさだったことは あちこちで聞いたし 私の生活も振り回され続けだったが 「裸の島ツアー」を忘れたことはなかった。 夏休みも目前に迫り『動静表」なる物の提出期限が迫ったので 多忙の中申し訳ないと思いつつ 広島の佐々木さんと 山本さんに「裸の島ツアー」がどうなっているのか問い合わせをした(つまり せっついた)。 日程は、お互いのスケジュールから 8月4日しか取れないことは、前もってわかっていた。 「裸の島」のロケをした 宿禰島(すくねじま)の向かい側にある 佐木島(さぎしま)への定期便があることも 山本さんの調べでわかった。 宿禰島にわたるルートが問題だった。 しかし 山本さんがインターネットから船を出してくれる人を見つけてくれて、「裸の島ツアー」が いよいよ実現することになった。 7月30日のことである。大々的に計画を立てる時間はなかった。 同行者は、佐々木さん 山本さん 私と 三重での歴教協大会を終えて合流する夫の4人。 8月4日8時20分、三原港からフェリーで出港。 服装は、案内人をしてくれる 御畑(みはた)さんの支持どおり、長袖 長ズボン 登山のできる服装である。 振り返って思えば、異常な暑さの夏に異常な服装ではあるが 4人は「裸の島」のことしか念頭になく、 気持ちは波間の先へ先へとすべっていく。 船が 防波堤の外へ出て間もなく、新藤さんが「お椀を伏せたような丸い孤島」と表現した島が視野の先にポツンと 見えてきた。 いや、それよりこちらに来る前に見直したビデオで見た「裸の島」のシルエットが いやいや案内をしてくれる 御畑さんが 送ってくれたメールに添付されていた写真でみた「緑の島」のシルエットが・・・・・と もうどれがどれだかわからない記憶が それが宿禰島だ!と知らせる島を 凝視しながら 佐木島へ向かった。 「裸の島」が撮影された40数年前 宿禰島はたしかに「裸の島」だった。 しかし メールに添付されていた宿禰島は、 みごとな「緑の島」に変身していた。そして もちろん2002年現在目の前にある宿禰島は、緑におおわれた島だった。 佐木港まで迎えにきてくれた御畑さんのてきぱきした指示にしたがって、気が付けば私たちは、すでに宿禰島に向かう モーターボートの中だった。 ここで誤解があった事を告白すれば 私は、伝馬船で渡るものだとばかり思っていた。 先立って届いたメールで 「乙羽さんと殿山さんに漕ぎ方を 教えてくれた方が来てくれる」とあったのを 「その人が船をこいでくれる」と 勝手に解釈していたのだ。 「よほどのお年なのに変だな」とは思っていたが深くは考えなかった。 この方は80歳になる堀本さんとおっしゃる方で島から帰った後懇親会にきてくださって当時の楽しい話を聞かせてくれる ことになるのだが。また 懇親会の中で 林さんの話題にふれたとき「あの偉い方ですね」とおっしゃたのがなぜか 我が事の様に誇らしく 気に入ってしまった人でもある。 しかし 宿禰島にこのモーターボートで上陸することは出来ないので モーターボートには手漕ぎボートをつないでそこに もう一人乗って 宿禰島の近くでそのボートに2回に分けて乗り移り島に上陸した。 もう至れり尽くせりの段取りである。 これも後でわかることであるが モーターボートの操縦士は、御畑さんの弟さん ボートを漕いだ後宿禰島に登る時 草を刈って道をつけてくれた人は 御畑さんのいとこさんだった。 宿禰島では御畑さんといとこさんが 案内人になって頂上まで登っていった。 「ここだよなあ・・・」「こことちがうかなあ・・・」と40数年の年月を経てほとんど痕跡を残していない。 「緑の島」でそれらしきルートを選んで登っていけば 頂上のすぐ足元は「裸の島」で見慣れたあの窪地である。 だまって見下ろしながら頭の中で そこに映像で見た掘っ立て小屋を再現してみる。 「ここに家があったなんてなあ・・」 という声に現実に戻ってみれば 木陰で瀬戸内の海を渡ってきた潮風が ここちよくセミの声が忙しい。 海の向こうにはやはり緑におおわれた佐木島が広がっている。 ここも「裸の島」のオープニングでは 「裸の島」だったところだ。 「あの 年貢のように納めに行ったカマスの中はなんでしょうね」という話から 島では当時は芋を作り 芋が現金収入につながらなくなってからは 除虫菊に転じ 今では みかんやトマトを作っている話にもつながっていった。 宿禰島にいた時間は 私にとってはあっという間のことであったが あとで御畑さんが書いたものを読めば 2時間近くも居たとの事 時間と言うものの不思議さを いま改めて思う。 佐木島に戻り「シャワーをどうぞ」ということで 御畑さんのお宅までお邪魔する。 順番にシャワーをしている間に 御畑さんのお母様とお話をする。 すると年のころ60歳くらい(72才の間違い 御畑訂正)の 方であったが 話の最初にいきなり 「耕して天に至る」という言葉が飛び出してきた。 えっ?この言葉ってここの土地の言葉なの?新藤さんが映画を作るときに考えた言葉だったんじゃないの?! 映画が先なの?それとも・?」と 私の頭の中は疑問だらけになる。そのあとも そして今もそれは疑問のままである。 これをお読みになってご存じの方がいらしたら 教えてくださると幸いです。 シャワーの後は、昼を兼ねた懇親会の場所 島でただ一つの食堂で飲み屋の「福ちゃん」に行く。 「裸の島」撮影当時この店があったら泰ちゃんこと 殿山泰司さんは ここでやっぱりお酒を飲んで「裸の島」は できあがっていたのかなあ・・・・と 想像をたくましくする。 ここで 話はとめどもなく盛り上がるのであるが モーターボートの操縦士で御畑さんの弟さんとわが夫は、 局地的かつ異常に意気投合して 飲むわ飲むわ 浴びるように生ビールを飲んで 弟さんはいつしか姿を消し わが夫は そのあと見学に行った新藤さん直筆の碑や 「裸の島」のロケ地も記憶にとどめていない始末。 それは横において盛り上がった話に戻ろう。 実は 御畑さんたちは、この島で数年前から島に人が戻ってくる 8月13日に映画会を開いてきたという 映画ファンの方たちだった。 いや 島に何か文化的なことをと考えて 映画を思い立たれたのかもしれない。 そして 1回目は「裸の島」しかないと「裸の島」を選んだとの事。 海岸にスクリーンを張り 野外で夜風に吹かれながら島の人たちで 観ようと計画したら ここまで聞くと 山田洋次さんの「虹をつかむ男」 あるいは もっと古い作品では『同胞」をほうふつさせるではないか。 私は、話を聞いていてそんな人間が現実に目の前にいることで「目がテン」状態になってしまった。 話を戻すと「裸の島」上映当日は 雨が降って 会場を学校の体育館に移したとのことではあるが 人は会場からあふれるほどだったとのこと。 また 俳優は 乙羽さんと泰ちゃんだけという映画で島のエキストラばかりなので 上映中「あっ どこの誰それだ・・・」 という話声で音は聞こえないような地元ならではの盛り上がり方だったそうだ。 御畑さん曰く「うるさいことうるさいこと。 でも まあ どうせ声はない映画なんだけどね」と 座を沸かせる。 そして 2回目 3回目と選んだ映画が 「二十四の瞳」「青い山脈」「無法松の一生」(二十四の瞳」「ビルマの竪琴」 「わたしは貝になりたい」「ひめゆりの塔」御畑 訂正)等 モノクロ映画ばかりというのだから また笑ってしまう。 我々が よほど変人と感心する御畑さんは、我々のことを変人呼ばわりする。 そして 話をしているうちに 全国にまだこのテの変人がいるらしいことを知って「本物の「裸の島」を観ながら 日が暮れたら「裸の島」を観るという上映会をしたい」と本気で話し始めた。 「島の人間はいいよ。 あんたらの仲間だけでいいよ。来年ぜったいやろうよ」ともうそれはアイデアではなく第1回実行委員会の様を呈してきた。 そして われわれもそれは できたらどんなにすばらしいだろう とは思いつつも 再来年の東京大会 そのつぎは ひろしま大会の準備やスケジュールのことが気になって手放しで「やろう やろう」とは、言えない。 言ってしまえば無責任になってしまう。いや うそつきになってしまう。 しかし やりたい。 福ちゃんを出て ロケ地を回った時「裸の島」を上映したという体育館ものぞいた。 グランドピアノがるではないか。 そのピアノで林さんが♪裸の島」♪を奏でたり林さんのピアノでリズムをする自分が見えた ような気がした。 この島に新藤さんと林さんがいらしてお話ししたり映画会や音楽会を開くことは夢でしかないのだろうか。 いま 影も形もないところから こういう話を立ち上げていくことも 「耕して天に至る」ことなのだろうか。 御畑さんは、すでにプロジェクトS(佐木島 新藤 宿禰島の3S)を立ち上げた。 御畑さんのホームページは、YAHOO JAPAN から検索できる。 音楽教育の会 ちばサークル パ パ パ NO8より転載 |