プロジェクトS 第17章
夏の思い出 新藤監督と乙羽信子さん  作 堀本 逸子
 昭和35年(1960)夏 女優 乙羽信子さんが 映画「裸の島」
撮影のため1か月間 佐木島の私の実家に滞在されました。
当時20歳の私は、乙羽さんと色々話しましたが 忘れられないのは
「平凡な幸せの大切さ」を学んだことでした。
女優という華やかな生活をしておられる方の この言葉に心を打たれました。

 
この映画は、オールロケのため乙羽さんは3時半起床で日の出シーンを
撮ったり雨のシーンでは 傘もささずびしょ濡れで仕事に取り組んだり 
連日の炎天下で日焼けも気にせず 水を入れた桶を担ぐ練習 
なれない船の櫓をこぐ練習と 若い13名のスタッフと共に頑張っておられた
姿が印象的でした。

 ある朝6時ごろ ずぶ濡れの姿で宿舎に帰り 着替えるとすぐ仕事に
出かけられました。後で聞きますと、錨を上げるシーンで錨を上げようと
した時 ロープに引きずられて海に転落したとの事でした。
何事もなかったかのように さっさと仕事に出かけられたお姿には 
感動いたしました。
 また ロケのため宿禰島の坂を暑い夏 100回近く上り下りされたと
聞いていますが 周囲には苦しさや辛さを微塵も感じさせず いつも爽やかで
疲れた姿は見たことがありません。
 乙羽さんの仕事への情熱は、すごいと思いました。

 東京の若い人が 2か月も不便な島に滞在すれば いざこざが起きは
しないかと思った人もいたようですが それはまったく杞憂に終わり 
全員が美しい島の温かい人柄が気に入り 東京を恋しがる人はひとりもなく 
熱心に真面目に仕事一筋だったそうです。島の人も爽やかでよく働くロケ隊に
感心し あたたかい協力を惜しみませんでした。
 これらは 新藤監督の魅力と指導力 それにロケ隊のチームワークの
素晴らしさだと思います。

 撮影スタッフは、島の人々とのコミュニケーションを図るべく 色々と
心がけているように感じました。そのひとつは 期間中一日だけ大雨が降り 
川が氾濫しそうだと町内放送があるやいなや ロケ隊の面々がすぐに駆けつけ 
積極的に土嚢作りを手伝ってくれたこともありました。

 映画の中で 島の四季を表現するため 無形文化財である
夏のチンコンカン踊り冬の亥の子祭 春駒 等のロケがあり また ある時は、
島の様子を上空から撮影するため ヘリコプターが鷺港桟橋を離着陸する様子も
見ました。
 映画の撮影現場を見るのは珍しく 佐木島の人々の関心を呼び 大勢の人が
集まりとても賑やかでした。
 当時 乙羽さんは、連続テレビ「ママちょっと来て」に出演中で 
日本テレビの佐木島での撮影も重なり ロケ隊の滞在中は島も活気に
満ちたものでした。

 皆さんもご存知のように 映画「裸の島」は、新藤監督が「生きる」を
テーマにした自然と人間の関係を独特の叙情で描いた無言の映画です。
この映画で見る「石積みの港」 農船の群れ」 「藻葉とり 
「木造校舎での授業」「麦踏み」「さつま芋植え」
「千歯こきでの麦の収穫作業」 「麦を殻竿でたたいての脱穀作業」
「自分で履く草履作り」 「石臼引き」等 
 この地方の生活様式やたたずまい瀬戸内の「段々畑の風景は、
歴史に残る貴重な映像だと思います。
 ロケ隊が島を離れる時は、島始まって以来の大勢の見送りで 私も乙羽さんと
涙の別れをしたことでした。

 昭和61年(1986)夏 ホームテレビ「誘われて二人旅」 
女優が一番行きたいところへ旅する番組で乙羽さんは、佐木島の我が家へ
来られ 涙の再会となりました。

 月日は流れ2003年2月 私は、東京での新藤監督 文化勲章受賞祝賀会に
招待を受け出席しました。
 何十年もの歳月が流れているのに 当時のスタッフの方々からとてもよくして
いただき 新藤監督とスタッフの方々との絆の強さに感銘を受けました。
親 子 孫 三代同じ仕事に携わり夢に向かって 「生きている限り
生きぬきたい」と頑張っておられる 新藤監督の活力の源は 
「乙羽さんとの思い出」と お聞きしています。

 新藤監督にとって それほど大切な方だった乙羽さんの遺骨は、
モスクワ国際映画祭でグランプリを受賞した 映画「裸の島」の周辺海域に
散骨されました。(1997年4月17日半分は、京都にある乙羽さんの墓に)

 昨年の夏 現役世界最高齢の映画監督は、「花は散れども」のロケを厳しい
暑さの中で敢行されていました。
 その最中 ロケ現場(山口県周南市)でお会いし 95歳とは思えない
そのお姿 ご活躍ぶりに感動 感激いたしました。

 夏になると これらの思い出が走馬灯のように 蘇ってまいります


   本文は、みはら歴史と観光の会出版の「わが町三原」
     第207号より転載しました