プロジェクトS 第22章 |
生き方を教えてくれた「裸の島」 作 千葉の磯八 |
佐木島の御畑農園ホームページ プロジェクトSに堀本 逸子さんが 「裸の島と新藤監督」「夏の思い出」など 投稿されていた。 逸子さんは、磯八の同級生であり12年間同じ学校に通った。 彼女は、子供の時からマドンナ的存在で 天から三物を授かったような 女性であった。 お正月に古希の祝いで帰郷し 逸子さんとお話しする機会が得られた。 佐木島のできごとや「裸の島」のことなど知りたく 彼女に投稿を続けてほしいと思った。磯八がモタモタ話していたので 主旨が通じたかどうかは判らない。 逆に 逸子さんの言葉巧みな話に誘われ「裸の島」の感想を 書かされる羽目になった。 もう半世紀も前のことであろうか?偶然 佐木島に帰郷していた 磯八は、映画「裸の島」を見る機会を得た。当時は村の人口も多く 屋外に白幕を張り上映される予定であったと思う 当日は、雨天のため 佐木青年会館で上映された。館内が満杯になり 入場することのできない観客は、窓の外から大勢が立ち見していた。 磯八もその一人であった。 正直なところ、白黒映画の上に無声映画である。 島で育った磯八にとっては「麦踏場面」など見なれた風景の連続である。 炎天下の天秤棒での水運びなど子どもの頃から肥え桶担ぎを やらされた磯八にとっては 何でもない場面である。 島の多くの人は、どんな気持ちで鑑賞されているのだろうか? 自分達のよく知っている、「宿禰島」や生活している佐木島が 映画になり映し出されている。その嬉しさや誇りは判るが もっと美しいカラーで華やかに撮って欲しかったのでは? 音楽は聞こえてくるが セリフなしでは物足りないのでは? どうしてこんな映画が面白いのだろうか? 磯八は、不思議に思った。勿論 映画撮影に関わった村人にとっては 場面場面に思い入れがあり 感動されたことは十分に理解できた。 国際映画祭でグランプリをとったとか どんな賞なんだろう? どんな人がどの様にして選んだのだろう? 磯八は、理解できなくても感激も感動もしなかった。 それから40数年が過ぎた2003年頃だろうか?広島の姉妹から 「裸の島」がテレビで放送される、見るようにと磯八に連絡があった。 (新藤兼人監督が文化勲章を受賞された時の特別番組であったような 気がするが。) 磯八は、文集なので佐木島のできごとなどを紹介したり 友人と島を 散策したこともあった。故郷がどんな島なのかPRするチャンスと思い 10人ほどの友達に急ぎ連絡した。 放送が始まると 昔見た あの「裸の島」である。 懐かしい佐木島も映っている。しかし 郷愁ではない 何かを感じ始めた。 あの繰り返される麦踏の場面にも魅入られていった。 段々畑の坂道で水桶をひっくり返し すまなさそうな妻(乙羽) それを見た夫(殿山)の鋭い眼差し 泣き崩れる妻 強烈に何かを 訴えている。一場面 一場面が脳裏に焼きついていく 何かを感じさせられていた。 昔 見た時にはなにも感じることはなく 白黒の無声映画に不満すら 覚えたのに不思議である。この映画を見ながら磯八は 自分の40数年間の生き方に思いを馳せていた。 20歳のあの頃に「裸の島」が もし理解出来たら 別の道を 選んだのではなかろうか いや 同じ道を歩いたとしても 大酒を飲んだりせず変わった人生に なったのではと・・・・決して人生に後悔などはしてはいないのだが・・ 10人の友達に感想を聞いた。 中には40数年前の磯八と同じ様に お酒を飲みながら寝てしまった、 という不届きな怠け者もいた。しかし 大部分の人は、 いい映画であった。人間の素晴らしい生き方を感じた、島の人たちの 生き方に感動させられたとの意見であった。 中には あの映画の前に新藤監督の対談があったはず それを聞けたら 新藤監督の思想や核心に触れ もっと別の角度からも観れたのでは? もっと早く連絡して欲しかったと 磯八を責める先輩もいた。 磯八は、監督の対談も見る事ができた。その中で 新藤さんが 駆け出しのシナリオライターの頃 なかなか認めて貰えなかった、 ある時 先輩監督にシナリオを見せた 先輩監督に「ストーリーでは ないのだ」と言われたとの発言があった。 (正確には表現は違ったかも?) その言葉に 磯八は、痛く感動し 嬉しくなった。そうなんだ 言いたいことをどの様に訴えるか 色や声だけではないのだ。 時にはストーリーなど無視した訴え方も必要なのだ。 「雄弁は 銀なり 沈黙は 金なり」という言葉には 色んな解釈は あるだろうが この映画を観て 素直に 「沈黙は 純金なり」と 確信させられた。 |