プロジェクトS 第25章 |
風景のちから、佐木島の思い出と映画「裸の島」(上) 作 横浜の小屋住人 |
3月はじめに 千葉の磯八さんから、佐木島の友達がネットでHP開いている 佐木島と「宿禰島」を知っているお前も 何か書け」 と連絡をもらったのですが 今に迄 遅れてしまいました。 例え駄文といえども 依頼者の顔を潰してはいけないしHPの内容を 辱めるようなことは出来ない と戸惑っていたのですが 実際直後の 東日本大震災で体と思考が硬直していました。 私は、就職先としていきなり某社の大阪の営業所にお世話になりましたが そこも多分当時の日本が高度成長期の走りの次期にあった 昭和40年代初期のあふれる活気と希望を体現している営業所の一つで あったと思います。 同じ職場に 先輩同僚の一人として千葉の磯八さんがいた。 氏が瀬戸内の島の出身だと聞いて それだけで羨ましいと思い 鹿児島志布志の出身である自分と多分同じような豊かで美しい自然の 風景中から来られた人だと思い 無遠慮にも強くその気持ちを出したのか 彼の島を訪れる機会に恵まれたのです。 初めて佐木島を訪問したのは 昭和42年7月で、入社して2年目でした。 多分一泊くらいの短期間であったと思いますが 三原港から出る島への 短時間の船旅で途中の景色に見とれて興奮したことを今でも思い出します。 静かな美しい島々と海の佇まいに 都会の無機質な景観に慣れ始めた体が うれしさと緊張で 一瞬すくむ思いをしました。 磯八さん(今は、千葉在住)とは それ以来のお付き合いで 公私ともに 一方ならぬお世話になりましたが 私も その高度成長への日々の埋没の 過程で 島を再訪する機会は、ありませんでした。 そして再び 現役を卒業して この10年に二回も訪れています。 特別に美しかった瀬戸内の風景が 心に残っていて それが私を誘ったのは 間違いありません。海軍軍人として江田島で学び 教えた父が幼い息子たちに 語った瀬戸内の風景も 心に想っていました。 私は、経済成長の中 海外との仕事に関わり 多くの街や風景に出会う 機会がありましたが 日本の風景との違いを強く感じます。 外国の圧倒されるような巨大な風景や景観は、ただ私を小さく感じさせ恐れ戦わせ またいつまで走っても小山ひとつ見えない長く平たんな道 どこまで行っても同じ畑 落ち着かない気持ちになり心が動揺します。しかし どんな季節だろうがいつも 美しい風景を直ぐ身近に持つ日本という国 海に迫る山や静かな瀬戸内の島々。 あるいはちょっと奥に入れば2−3千メートルを越す高山を擁する国は 世界広しと言えども そう見られるわけではありません。 そして そこに豊かな文化を持つ人達が住んでいる。 我ら日本の風景はいつも近くにあると体が覚えているようです。 時としてその美しい風景も 突然 人間へ大きな災渦をもたらし 人を絶望の底へと落とし込みますが そのような 人間への厳しい仕打ち 思い出すと震えるような自然の恐ろしさ それとても不可分な自然との交わりであると 心に埋め込まれた日本人の習性だと思います。 最初の「宿禰島」の姿を遠望した昭和42年は もう44年前となります。 今回 磯八さんより「覚えちょるか?」と聞かれ 忘れるはずはなく 思い出したように昔の私の書きなぐりのちいさなガラクタ油絵を 押し入れに見つけました。 その時の印象が強烈だったのでしょうか 簡単なスケッチをもとに帰宅後描いた 単なる素人の記録絵としても 佐木島の海辺から見た「宿禰島」の夕暮れの雰囲気が 十分残っているんですね 我が目に焼き付いたように あんな小さな島も 周りの大きな島の山々から迫るように囲まれながら黒い海上に鎮座している情景が蘇ります。 正に息を飲むような美しい風景でした。 もちろん私の絵の出来を言っているわけではありません。それは論外ですが 人の記憶に静かに そして 時にグサリと残す風景の力があるのだと思います。 体で捉え 心に落とし込んだ風景の印象は、強烈だと改めて思います。 その絵の裏に 1976年8月1日と記してありました。 |
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