8月4日、千葉のH夫妻とSさんと4人は、佐木島目指して、三原港からフェリーに乗船。
日曜日だが、朝8:20分発の船内は まばらだった。
私たち以外のお客は ほとんどが家族連れの海水浴客。
こちらは 長そで、長ズボン、登山靴の出で立ち。
帽子もかぶっていて、海水浴客から見れば、どこへ?という風だったろう。
5分も走れば前方に 見慣れたこんもりした小島が 現れた。
見慣れたというのは、映画で見ていたということと、
つい先日御畑さんが 送ってくれた今の写真で、初めて訪れたとか、
やっと来ました とかいう感慨よりも、ああ これこれ、これが
裸の島だという感じなのである。
鷺港到着、桟橋を降りていくと、めがねの御畑さんが 私たちよりも
もっとちゃんとした、身支度で待っていてくれて、初対面の挨拶。
早速に車に荷物を置いて、モーターボートに乗り込む。
船長は 御畑さんの弟さん。何かと助手をしてくれるのは、いとこさん。
モーターボートに 小さな上陸艇をつなぐ。
地元の3人は、てきぱきとしていて、この景色に違和感がないのだが、
私たち4人は、これから起こる事への期待感で興奮し、ちょっとハイテンション。
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当然のことだが、あっという間に宿祢島に到着。
ここを あの伝馬船で乙羽信子さんが漕いだのか と思ったのは つかの間だった。 |
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御畑さん達は、島の頂上への道を探している。乙羽さんが水桶を担いで登ったあの道を。
どこもシダや潅木で覆われていたが、御畑さんといとこさんが
鎌で草や枝を切り払いながら、先導してくれ、
わらびが背丈を超えていると 大騒ぎの私たちを笑っていた。
松の緑が鮮やか、櫨の木が多い。所々に立派なクチナシの木がある。
「家の跡も、イチジクもないのう。じゃが、ここが頂上よのう。」と
20分ほどの行程だった。
空いっぱいに枝を広げ気持ちの良い木陰を作っている 櫨の木の根元に たどり着いた。
海風がひんやりしていて、汗がひいていく この感じがすばらしい。
いつまでもここにいたいと 思う涼しさだった。下界は猛暑というのにウソみたい。
しばらくそこで裸の島の撮影当時を想像してみた。
御畑さん達は、小学生だったので、覚えていることをたくさん話してくれた。
撮影当時住んでいたおじいさん、サツマイモなどを植えていた人だが、その人は
用があると、島に旗を出したりして佐木島の人々に 助けてもらっていたとか。
今はもう誰もいない この島。
飲み水は わき水がちょろちょろ出ていたらしい。それはこの辺だったかなあ、
と探してみる。それらしき跡が海岸の縁にあった。
御畑さんは、「あの鯛を泳がしとった いけすがあったんじゃが、ないのう。
こわれたんかのう。」と探している。
そんなこんなで 2時間も宿祢島にいたが、厭きることはなかった。 |
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佐木島に戻って、島に一軒という「福ちゃん」食堂で 昼食を取る。
そこへ「裸の島」撮影時に 乙羽さんや殿山さんに 伝馬船の漕ぎ方を教えたという
81才のかくしゃくとした老人が。御畑さんが 私たちのためにお願いしていたのだ。
彼は、実に当時のことをよく覚えていた。新藤さんを尊敬していると言った。
その仕事ぶりに心を打たれて、できるだけの協力をしたことが 話しぶりからよく分かった。
島には もうこんなに鮮明に当時を語ることが できる人は少ないそうだ。
私たちは 御畑さんがこちらの飛び込みメールに 親身に応えてくれたお陰で、
こんなに素晴らしい体験、出会いをすることができた。
御畑さんが 日々水をやる仕事をしていることが、この出会いを作ったのだと思う。
この素晴らしい体験を次につなげていきたいと、「福ちゃん」でビールのジョッキが
運ばれるたびに、話が盛り上がっていった。
42年前に撮影された「裸の島」、素晴らしい映像と 林 光の音楽。
その世界の一端でも触れられればと計画した この裸の島紀行だったが、
忘れられない一日となった。
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