プロジェクトS 第21章
「裸の島」を探して (下)      作 パトリック・プラド (在パリ)
            訳  関藤 咲耶
 映画「裸の島」のなかの1シーンで、乙羽信子さんが演じるトヨは、 船先に座っている。
男は 船尾で八の字を描くように櫓を漕いでいて、その漕ぎ方は 私の故郷ブルターニュと同じだ。
(佐木島ふるさと館に展示してあった櫓は、フランスのものより長く 重たかった。)
 男は、額の汗を拭う。ふたりは 隣島に水を探しにやって来たので、重い木桶に水を汲んで持って帰る。
あのころ、ブリキのバケツやプラスティックなど、もっと軽い素材の桶もあったことだろうが、
辛い生活を象徴するために 木桶を撮影に使ったのだろう。

 島は、水平線の向こうにぽっかり浮かんでいる。島では、子どもが小さいながらも火を熾したり、
動物に餌をやったりしながら 両親の帰りを待っているようだ。
 女、男、子どもという家族構成の原型、動物たちと水、土、火、風という四大要素だけの世界だ。
食事をする時さえ言葉少なく、聞こえてくるのは、海の音ばかり。
そして 学校の風景、いんげん豆、イモ、トウモロコシ畑の映像。

 「裸の島」が作られた時代、日本は 急速な工業化の波の中で、激動の時を生きていた。
同時代の日本映画、小津、黒澤、勅使河原作品も こんな近代日本に生きる女性、娘、婿 
家庭を描いている。
長い時間をかけて緩やかに変化していったヨーロッパでの工業化とは違い、日本での工業化は 
急激なものだったから、当時の人々の苦労は並大抵ではなかったのではないだろうか、と想像する。

 男は 畑に水を撒き、女は 水を船から畑まで運ぶ。子どもは、蟹が浮かんでいる海で、泳ぎ遊ぶ。
こんな環境で、大した喜びも、かといって堪え難い苦労もない彼らの人生は 単調に永続するのかも
しれないと思っていると、突然、状況が変化する。女は 足を踏み外し桶と一緒に倒れる。
水がこぼれ、男は女を殴る。 このシーンは 私たち西洋人には あまりにも唐突で、
何度見ても、いつも戸惑う。
 日本映画の中で 男が妻を殺したり 女が男を殺すシーンは 幾度となく見たが、男が女を殴るのは 
これが初めてだった。どういう意図で、新藤監督は このシーンを書かれたのだろう?


 佐木島では、ほとんどの家は 閉まっていた。私のブルターニュの島も、普段、島に住んでいるのは
人口の約10%に過ぎないほどだ。しかし 夏になると、どの家も窓を開け放っている。
私たちが宿泊した 民宿「CAMP」の 女主人は、バブルがはじけてからというもの 
宿泊客が少なくなった。ずいぶんいろいろな環境が 変わってしまったことについて 話してくれた。
人々がやってくるのは、お葬式とお盆の時だとも。仕事を退職してから戻ってきて住みつく人はいても
20代から60代までの人々がいないのだ。
 
 私の島でも、教会が人で埋まるほど帰省客が多いのは、11月2日にあたるフランス版お盆の時だけだ。
冬場は、退職者と医者だけで、市長すら 一年中 島で暮らしているわけではない。
 
 佐木島でも 時々 「売家」と書いてある家を見かけた。とても綺麗な島なのに・・・・・・・・
もし 私にお金があったら、ここに住んでみたいと思ったほどだ。
 息子が日本語を学ぶ良い機会になるだろう。学校には連絡船に乗って通い 
岡山大学か大阪大学に進めばよい。
この島の櫓の漕ぎ方を習って 最初のうちは 私が送り迎えしてやろう。
佐木島には 乙羽さんに櫓の漕ぎ方を教えた 堀本茂行さんがまだ住んでいらっしゃる。
食料品屋さんをなさっていて 今は、息子さんが継いでいらっしゃるようだ。


 開本さんが船を出してくださり、御畑さんと堀本逸子さんが 一緒に来てくださって 宿禰島を訪れた。
3人とも よくこの島のことはご存知だ。御畑さんの蜜柑畑から見えたように 島は植物にすっかり
覆われていて 土が見える場所はない。御畑さんは、頂上まで登れるように 斧で茨を切り倒し 
道を開いてくださった。太郎と次郎が、水を運んで来た両親を迎えに この道を走り降りてくるのが
見えるようだった。そして その水を 女は 転んでこぼしてしまうのだが・・・・・


 インターネットで「裸の島」のあらすじを探すと こう書いてあった。「瀬戸内海(日本の東南に
位置する)の寂れた島の厳しい環境で暮らす一家族。水がないので、隣島に水を探しにいくという
辛い条件のもとで イモと野菜を栽培する。二人の子どものうち兄は、学校に通っているが
ある日 死んでしまう。」と 親より生き延びるはずの子どもが急死してしまうため 単調だった
一家の生活は覆される。この島の頂上で お葬式がとり行われる。トヨは、亡き子が大切に
していたおもちゃの刀を 墓の上に置いてやる。学校の同級生たちが葬式に同席する。


 映画の中で、この一家の家は山の中腹にあるという設定になっている。木がたくさん茂っているので
狭そうに見える家だ。もちろん 装飾などというものはほとんどなく 水瓶 錆び付いた
トタン屋根があるばかりだ。現実には 映画の大部分は この宿禰島ではなく 佐木島に
作られたセットの中で撮影されたという。
 子どもたちが学校の校庭で遊んでいるシーンや 祭りで島の人々が踊るシーンなどは
佐木島での撮影だ。そういう意味では、「裸の島」自体は 完全にフィクションであるが 佐木島での
シーンは 重要なドキュメンタリー映画に値する。
 トヨの子どもたち 太郎と次郎を演じるのは 本当に島で暮らしていた子どもたちで
おふたりとも 早逝されたということだ。私たちは そのうちのお一人の父堂にお目にかかる
ことができた。おはなしでは ご子息が映画に出られたのは たった一回きりのことだったそうだ。


 海音は 絶え間なく聞こえてきて 林 光 作曲のテーマ曲と混じっている。私は 水平線、
ほかの島々 民宿CAMPの女主人、樅の木や茨が茂って今は野生林化してしまった段々畑を
撮影した。僕は 「裸の島・その後」という小さな短編映画を作ることを考えてこの島に
やって来た。撮影から50年たった今 昔の撮影現場は どう変わっただろうか?
パリや京都といった歴史的遺産の多い場所は あまり変化しないものだが 東京やモスクワ
といった都市は、いくつかのモニュメントを除いては ずいぶん移り変わってしまった。
 1923年の関東大震災は 東京を瓦礫の山にしてしまったが その後 怒涛のように
押し寄せた近代経済も破壊的だったことは歪めない。パリですら コルビュジエのような
モダンと評される建築家によって都市計画されたなら 今ある情緒は残っていないだろう。
 私が 最初に広島を訪れたのは24歳のとき 60年代だった。今回 佐木島に着く前に
広島に寄ったが 米軍が投下した原爆に瓦解する以前の街とも 私が訪れた60年代とも
まったく違う街になっていた。ただ セーヌ川や隅田川のように 太田川が街の中心を
ゆったりと流れ続けていて それに心が和んだ。動かなかった風景といえば 山と
この太田川だけかもしれない。ただ自然だけが 思う存分生きていた。


 佐木島滞在中 なにかが私の想像の世界に少しずつ芽生えていった。「裸の島」の撮影隊が
島を訪れる前を舞台にしたもので 堀本茂行さんが語ってくださった 回想をもとにしている。
 きっとある日 フランス語で書くことになるか あるいは短編の無声映画として撮影するか
わからないが 登場人物は二人だけで そのうち一人は 一度少し登場するだけだ。


 昔 ひとりの男性が この宿禰島に住んでいた。村上さんという 満州から帰還して来た人だ。
世を避け 誰にも迷惑をかけずにひとりで暮らしていた。掘建て小屋に住み イモを育て
雨水を貯めて 魚を釣って生活していた。必要なものがあるとき以外は 佐木島に姿を現さなかった。
紐 針金 鶏の餌 米 ・・・そんな最低限のもの。あまり長い間 姿を見せないときは 島で
食料品屋を営んでいて 船を持っていた堀本茂行さんや 社会福祉士が訪ねにいった。
 佐木島の人々に支えられて 彼はこのように数十年を過ごした。

 ある日 ひとりの女性が佐木島を訪ねてくる。彼女は 宿禰島の男性に会いに来たという。
堀本さんに船を出して 宿禰島まで連れて行ってくれと言い 翌日迎えに来てくれるように
頼んだそうだ。彼女は 宿禰島で一泊し 堀本さんは 翌日迎えに行った。とくに何も
語らなかったそうだし 二度と 島に戻って来なかったそうだ。一晩しかいなかったのだ。
 妻・ 姉・ 娘? あるいは恋人?誰にもほんとうのところはわからない。何を言いに来たのだろうか? 
探しに来たのか 連れ戻しに来たのか?「広島の人だったのでは?」と 堀本さんは 語っていらっしゃる。
どちらにせよ 男は 宿禰島に残った。イモを相変わらず作っていた。人々の前に姿を現すことは
稀だったため 誰も 村上さんについて これ以上のことを知らない。
 新藤監督は 撮影に際して村上さんに許可を求め 邪魔はしないようにすると約束したということだから
もう少し深い話をご存知かもしれないが 監督が多く質問したところで 村上さんのほうは
言葉少なかったかもしれない。
 数年後 遠縁の人が迎えにやってきて 村上さんは いなくなった。どこで亡くなったのか
知る人もいない。これが 「裸の島」の続きの話だ。無人島に住む隠遁者のように孤独な男の話。
どんな秘密を抱えたひとだったのだろう。


 佐木島で トヨが水田の脇に水を探しに来るシーンがある。風景自体は限られたものなのに
広大な世界が凝縮されたような感じがする場所だ。私たちは ランドセルを担いだ学校帰りの
男の子と出会った。楽譜を出して 縦笛を吹いてくれた。それに合わせて私の妻は 小さな声で
歌っていた・・・・・・ 素晴らしい風景だった。


 こんな経験ができたのも 堀本逸子さん 御畑さん 開本さん みなさんのおかげだ。
また 佐木島を訪ねるかもしれないし あるいは 私の島 Ile aux Moinesに招待できたらいいなと
思っている。「裸の島」にそっくりな人影少ない私の島(モルビハン湾には 小さな島が50以上ある)
をご案内したい。

 また お会いしましょう。
縦笛(リコーダー)を吹く少年 わたしと堀本逸子さん