プロジェクトS 第32章
新藤兼人先生 さようなら      堀本 逸子
 昨年11月19日 監督の遺骨の一部が 風光明美な瀬戸内海の 宿祢島周辺に散骨されました。
その日時は 誰にも知らされず 東京から来られた6人のご家族に 見守られ 
粛々とお別れをされました。

 私は、偶然 その報を知り 一人で三原港で 監督に最後のお別れをすることが出来ました。
先生の乗られたチャーター船が三原港から遠く小さく離れていくのを見て 私は、思わず
「先生 さようなら ありがとうございました。」」と小さくさけびました。
50年の思い出と監督から学んだ多くの生き方が脳裏をかすめ 感極まりました。
船は、佐木港の湾まで入り 佐木島にもお別れをされたとお聞きしました。

 今をさかのぼること15年前(平成9年)の4月 乙羽信子さんの3回忌に 思い出の青い海
佐木島沖の宿祢島周辺に乙羽さんの遺骨の一部が散骨されました。
その時 監督をはじめ 散骨のために東京から来られた皆さんが その年の2月に他界した
私の父の霊前にお参りして下さったことを 昨日のことの様に思い出します。

 三原では、12月1日〜2日 お孫さんの新藤風さん(映画監督)と ロケ当時のスタッフを
お迎えして「新藤兼人映画祭」が開催されました。11月30日〜12月6日は、
リージョンプラザ展示ホールで「新藤兼人展」も開催され 追悼記念誌「あの夏の思い出 
「裸の島」永遠に・・・も発行されました。

 あの日から15年・・・・・・乙羽さんの眠っておられる この美しく穏やかな 瀬戸内海で
おふたりで 安らかにお眠り下さい。

 新藤先生 乙羽信子さんとの出会いは 私の一生の宝物になり 映画「裸の島」は
いつまでも 瀬戸内海に生き続けることでしょう。

 新藤兼人先生、ありがとうございました。   さようなら
                     追  記


 この32章をご覧になった 知人からコメントをいただきました。
この場をお借りして紹介させていただきます。

堀本様 50年の歳月 感極まりますね。昨年の夏頃、無声映画「裸の島」のDVDを
レンタル視聴しました。
 乙羽さんは 折角汲んで来た水を誤って零し、殿山さんにこっぴどく怒られました。
一生懸命生きているのに。印象的でした。
    (匿名 Aさん)

新藤監督、100歳まで生きられて、仰せの通り『生きている限り生きぬきたい』を
実践されましたね。素晴らしい人生でした。「裸の島」は、色んなことを教えてくれました。
 それにしても俳優やスタッフにも恵まれ、島の関係者の協力で 低コストで起死回生の
映画になったと聞いています。瀬戸内の美しい風景、そして あの時代ならではと思います。
    (匿名 Bさん)



堀本様 新藤兼人監督のお骨の一部が 広島三原・佐木島沖の宿祢島の海に散骨されたとの
ご報告ありがとうございました。
 本当に堀本様の言うとおり、これで名女優であり 同士であり 恋心をもって敬愛したであろう 
乙羽信子さんのまだ宿祢島を去りがたく待っていた散骨のかけらが約束通り新藤兼人監督の骨と心が 
あの美しい瀬戸内の島影で会ったのだ、と思うと 私ごときでも心が動悸します。
瀬戸内のあの美しい夕暮れは 本当に二人の骨の再会にふさわしいと思います。
 お孫さんの風さんは、きっと日本を代表するような二人の先鋭芸術家を美しく記録し 
思いを乗せて発展させてくれると思います。堀本さんのゆるぎないサポートや 寄り添いが
素晴らしいですね。この様な行いの出来る方を 私みたいな粗雑な生き方をしたものには 
とても出来ないことといたく尊敬しております。
 多分 今後とも 堀本さん 御畑完治さんともども 風さんが何かと話して来られると
思いますので、新藤兼人監督、乙羽信子さんたちが残した日本の素晴らしい心と生活の風景を
一緒になって残して先へ引き継いでほしいと 勝手に希望しております。
    (匿名 Cさん)

3人の方 コメントをありがとうございました。(堀本 逸子)