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渋川一族の物語 |
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室町時代に,東国を発進して,遥か西国へ向かった渋川一族の足跡を追跡したい。
彼らの事跡は永い時の流れの彼方に去って,その遠影を追うことは容易ではない。
京都の文化を知り,朝鮮とも交易した彼らは,地域に最新の文化を伝えたであろう。
一方で,城郭建設や合戦を進める中で,人々に厳しい役務を強いたことも疑いない。
九州探題の要職と,足利一門としての誇りが,渋川一族の士気を鼓舞したであろう。
博多では,九州探題としての使命感そして存在感が,彼らから示されたに違いない。
西国における渋川一族の足跡を, 「企業案内」として,また「物語」として追跡したい。
@ 渋川一族の系譜 |
九州探題を務めた渋川一族発祥 の地は,群馬県渋川市である。 (JR上越線渋川駅) |
渋川氏は,清和源氏の系譜をもつ足利氏から分かれた一族である。
鎌倉時代に,足利泰氏の子義顕が,上野国渋川郷で渋川氏を名乗ったことに始まる。
渋川氏は,現在の渋川市入澤地区の延命寺平に,館を構えていたという。
しかし,現在の渋川市に,その足跡を覗わせるものは少ない。
わずかに,渋川義顕が鶴岡八幡宮を勧進したという渋川八幡宮が,入澤地区にある。
A 渋川一族の貢献 |
女影原は,JR川越線の武蔵高萩駅の 近く,女影時計台の南方に望まれる。 (埼玉県日高市) |
渋川一族は,室町幕府の創設期に,終始,足利尊氏に従っていたものと思われる。
渋川義季は中先代の乱(1335)で,武蔵国女影原(おなかげはら)に北条氏の大軍を迎えた。
渋川義季は奮闘したが,敗れて女影原で家臣とともに自害した。 時に,22歳であった。
室町幕府創設期における渋川義季の壮絶な貢献が,足利氏に評価されたのであろうか。
娘(幸子)が,第二代将軍足利義詮の公室になるなど,一族は幕府の中で重用された。
また、渋川氏は全国に多数の所領(知行地)を与えられ,活動拠点を次第に西国に移した。
そのため,渋川氏と上野国渋川郷との関係は薄くなっていく。
B 九 州 探 題 |
渋川義季の孫の渋川義行が,斯波氏経の後任として,九州探題に抜擢された。(1365)
これには,第二代将軍足利義詮の公室幸子の推薦があったのではないかといわれている。
足利義詮の公室幸子は渋川義行の伯母であり,義行の母は高師直の娘である。
九州では南朝勢力が強く,渋川義行は九州には入れず,備後国(広島県東部地方)に留まった。
渋川義行の力量に不安を持った幕府は,九州探題を今川l了俊に任命換えした。
今川了俊は,約25年間,九州で活動したが,やがて,その支配に行き詰まり,九州探題を解任された。
次の九州探題は,渋川義行の子の渋川満頼である。彼は,渋川一族としてはじめて九州に赴任した。
渋川満頼は,博多において朝鮮交易に係わるなど,九州探題としての体裁と振舞いをみせた。
その後,渋川一族は小弐氏などから拠点を脅かされて肥前国に移り,九州探題は次第に名目的となってゆく。
渋川氏は肥前国朝日山城などを攻め落とされ,約140余年の九州探題としての歴史を終えた。(1533年)