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渋川一族の物語 |
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九州の在地勢力から見るならば,九州探題の渋川一族は,目障りな外来者に過ぎない。
先進都市の博多に着任した渋川一族は,やがて,少弐氏と抗争して博多の権益を失う。
肥前国の綾部へ退避した渋川一族にとって,そこは,「安住の地」となったのであろうか。
肥前国は,名目的となった九州探題渋川氏が最後を迎える「苦渋の地」となったである。
綾部では,繰り返す少弐氏との厳しい城郭の争奪戦の中で,被官との信頼関係も失う。
少弐氏との抗争は戦国舞台の序幕に過ぎない。舞台は龍造寺氏鍋島氏の興隆へ廻る。
@ 博多の渋川一族 |
博多は今も昔も,九州のエネルギー の中心である。 (祇園山笠) |
今川了俊の次に九州探題となった渋川満頼は,実際に九州に赴いて活動した。
筑前御牧郡の幕府御料所の一部を探題領としたほか,筑前・肥前地域を抑えた。
一族や被官と連携しながら,承天寺や宗像大社など,特定の寺社との関係も深めた。
博多において、寺社や博多商人の協力を得ながら,朝鮮交易を頻繁に行った。
渋川満頼についてみれば,九州探題として,その名に相応しい活動をしたといえる。
これには,中国地方の有力者大内義弘の支援もあった。
この時期が,渋川一族の歴史の中で,最も隆盛で華やかな時代であった。
A 今川了俊の遺産 |
今川了俊は,京都において著名な文人であったが,一方で,政略を備えた武人であった。
彼は,一族・被官と連携して,懐良親王と菊池氏の南朝勢力を太宰府から追放した。
決定的であったのは,今川了俊が,北部九州の実力者少弐冬資を,誘殺した事件である。(1375)
彼はほぼ九州の南朝勢力を平定したが,この事件は島津氏などに大きな不信の念を与えた。
九州の平定の中で倭寇の取り締まりも行い,朝鮮王朝の信頼を得て朝鮮との交易を開拓した。
今川了俊は,約25年間にわたり,九州において幕府の威光を示しながら,独自の権勢を示した。
彼の九州支配は、やがて不安定化し、幕府から信頼を失うこととなり、それが解任につながった。
九州探題今川了俊の支配権の多くは,次の渋川満頼に,引き継がれたものとみられる。
一方で,今川了俊の活動は,少弐一族らに九州探題に対する消しがたい怨念を残した。
渋川一族の衰退は,少弐氏との抗争に大きく起因している。
渋川氏は, いわば,今川了俊の負の遺産も,同時に引き継いだといえる。
B 肥前の渋川一族 |
佐賀県中原町 の 「 風の館 」 展望デッキから 北面を望む。 「いきいき四季の まちなかばる」 のパンフレット (中原町発行) から転載した。 |
綾部を中心とする地域(佐賀県東部)には,渋川満頼が,前任者の今川了俊から引き継いだ拠点があった。
渋川満頼の子である義俊は,少弐満貞に攻められ,博多を追われて肥前国に退いた。(1423,1425)
肥前の綾部城は,複数の山城 (臥牛城,白虎城,鷹取城,小弐山城,宮山城) の総称であろう。
その中で,白虎城が,綾部城の主城と目される。
肥前国綾部城の周辺では,渋川氏と少弐氏などによる,城郭の争奪戦が繰り返されたとされる。
一方,渋川教直の子の万寿丸が被官に殺害される事件が起きるなど,渋川一族と被官の関係が乱れた。
C 備後の渋川一族 |
備後国には,石清水八幡宮領の御調別宮(広島県三原市八幡町)に,渋川一族の所領があった。
九州探題渋川義行は,備後国を九州への出撃拠点と考えたが,九州へは一歩も足を進めなかった。
戦国期になると,備後国渋川氏は,備後の有力者宮氏との関係を深め,尼子氏に従った時期がある。
渋川氏は,最終的には毛利氏と婚姻関係を結んで,尼子氏の勢力と対立することになる。
当初は,御調別宮の社殿に近い 小丘陵に ↓ 勝山城を築いた。 |
毛利氏と尼子氏の対立のためか, 急峻な ↓ 小童城に移転した。 |