3 中央政府(幕府)は企業(渋川一族)を支援したか。

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渋川一族の物語
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  幕府には,九州地域に残存する南朝勢力を放置できない事情があった。

  一方で,有力者の均衡を図る幕府は,九州の専制支配は認められない。

  西国に君臨した野心的一族である大内氏も,九州に無関心でおれない。

  東国出身の渋川氏からみれば,西国は,元々関係の深い地域ではない。

  渋川一族は,やがて九州探題の実質を失い,幕府の期待には沿えない。

  渋川一族の力量不足も否めないが,九州統治には困難な状況があった。




@ 幕府の九州政策




中央集権か,地方分権か,これは時代
を超えたテーマである。(鹿苑寺金閣)


  渋川義季の孫・渋川義行が,九州探題に抜擢された。

 このとき,義行は18歳の若武者であった。

  九州探題の任命に際して,幕府は渋川義行の支援策として,

 彼に備中・備後の守護職を与えた。

   渋川義行は,備後国で九州への下向に備えたが,九州には

 一歩もを踏み入れることができなかった。

 赴任すべき九州では,南朝の勢力が強かった。

   渋川義行は,5年後に九州探題を解任され,むなしく備後から

 京都に帰り,出家して28歳で没したといわれる。

   



A 小早川氏の支援




土肥氏一族小早川氏一族の供養塔
広島県三原市本郷町 米山寺)小早川氏の菩提寺米山寺

  備後渋川氏の御調別宮の所領に隣接して,安芸国(広島県)

 
小早川一族がいた。小早川氏は,平家を追討し安芸国に入部した

 東国
(神奈川県湯河原町)の 土肥氏一族である。

  小早川一族は,在京して奉公衆を勤め,小早川春平は,

 京都に私邸を持っていた。


   小早川則平は幕府の命を受け,九州探題渋川満直を支援するため,

 
安芸国から九州に赴いた。(1414)

 小早川氏にとって,名族渋川氏を支援することは,幕府への忠誠を示す

 ことになる。


 ところが,小早川則平は,渋川満直 の力量に
見切りをつけ、その改補を幕府に申し入れた。

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B 大 内 氏 の 支 援




瑠璃光寺五重塔は,大内義弘の菩提を
弔うため,建立された。(山口市)

瑠璃光寺五重塔

   大内氏は,九州探題渋川氏の支援者であったが,応仁の乱を経て,大内氏と渋川氏も,

 次第に戦国の仕様に移行した。

   九州探題の実質を失った渋川氏は国人領主として,地域権益を守る立場に置かれる。

   また,渋川一族は、一族の乱れや被官の混乱が深刻となっていた。名目的となった九州渋川氏は,

 最大の危機を迎えたことになる。

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 3  政 府 (おわり)