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渋川一族の物語 |
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幕府には,九州地域に残存する南朝勢力を放置できない事情があった。
一方で,有力者の均衡を図る幕府は,九州の専制支配は認められない。
西国に君臨した野心的一族である大内氏も,九州に無関心でおれない。
東国出身の渋川氏からみれば,西国は,元々関係の深い地域ではない。
渋川一族は,やがて九州探題の実質を失い,幕府の期待には沿えない。
渋川一族の力量不足も否めないが,九州統治には困難な状況があった。
@ 幕府の九州政策 |
中央集権か,地方分権か,これは時代 を超えたテーマである。(鹿苑寺金閣) |
渋川義季の孫・渋川義行が,九州探題に抜擢された。
このとき,義行は18歳の若武者であった。
九州探題の任命に際して,幕府は渋川義行の支援策として,
彼に備中・備後の守護職を与えた。
渋川義行は,備後国で九州への下向に備えたが,九州には
一歩もを踏み入れることができなかった。
赴任すべき九州では,南朝の勢力が強かった。
渋川義行は,5年後に九州探題を解任され,むなしく備後から
京都に帰り,出家して28歳で没したといわれる。
A 小早川氏の支援 |
土肥氏一族,小早川氏一族の供養塔 (広島県三原市本郷町 米山寺) |
備後渋川氏の御調別宮の所領に隣接して,安芸国(広島県)
小早川一族がいた。小早川氏は,平家を追討し安芸国に入部した
東国(神奈川県湯河原町)の 土肥氏一族である。
小早川一族は,在京して奉公衆を勤め,小早川春平は,
京都に私邸を持っていた。
小早川則平は幕府の命を受け,九州探題渋川満直を支援するため,
安芸国から九州に赴いた。(1414)
小早川氏にとって,名族渋川氏を支援することは,幕府への忠誠を示す
ことになる。
ところが,小早川則平は,渋川満直 の力量に見切りをつけ、その改補を幕府に申し入れた。
B 大 内 氏 の 支 援 |
瑠璃光寺五重塔は,大内義弘の菩提を 弔うため,建立された。(山口市) |
大内氏は,九州探題渋川氏の支援者であったが,応仁の乱を経て,大内氏と渋川氏も,
次第に戦国の仕様に移行した。
九州探題の実質を失った渋川氏は,国人領主として,地域権益を守る立場に置かれる。
また,渋川一族は、一族の乱れや被官の混乱が深刻となっていた。名目的となった九州渋川氏は,
最大の危機を迎えたことになる。