「みことばの宅配便」 Daily Manna

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。詩篇119:105

2014年09月30日
「一国か一身か」

*≪今日の聖句≫エゼキエル18:4
「すべての命はわたしのものである。父の命も子の命も、同様にわたしのものである。罪を犯した者、その人が死ぬ。」

*私たちは人間として、皆、創造主の前に一人ひとりが責任を負っている。何かの権威の前に身を隠すことは出来ない。誰からのせいにすることは出来ない。先祖や社会や国の偉い人々に同化して責任を逃れることは出来ない。私の罪は私の罪であり、その罪から清められなくして人間としての再出発はかなわない。

*「イスラエルの家」と言われているのは、国であり同時に個人である。一人ひとりが共通の罪責を負っている。全ての責任を負う「天皇」のような頭は存在しない。「イスラエルの家」は個々人が神の前に責任を問われ、神に答える責任を負っており、そこでは誰かのせいにして責任を逃れる無責任体制は維持できない。上の命令に従ったまでだ。それ以外に生きる術がなかった、と抗弁することはできない。親も子もない。男も女もない。主人も奴隷もない。官僚も平民も違いはない。それぞれが皆、平等に創り主に対して自分の責任を負っている。それが人間の平等性の源泉である。生きる権利と、それゆえまた義務を負っているのは主に対してである。

*明治時代、一国と一身、国家と個人のどちらがより重要かが争われ、結局、国家主義が勝利して、その結果、民は「天皇」を頂点とする「上」に盲目的に服従を強いられ、国の指導者の命ずるままに戦争にもってゆかれた。その中では、個々人が主なる神への責任を問われない代わりに、国家が神の代わりとなった。今日また国家主義の台頭の危機が迫っている。それは明治以来の国家主義の清算がなされていなかったからである。改めて、国家を超え、世界を超える、愛なる創造主の権威に対する信頼に基づく信仰が必要である。

◇「みことばの宅配便」は、御国への巡礼を共に歩む神の民に
主日聖句から日ごとの糧を分かつ祭司の務めとして発行されています。

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