「みことばの宅配便」 Daily Manna

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。詩篇119:105

2014年04月18日
「神の子」

:≪福音書日課≫マタイ27:11-54(新56):≪今日の聖句≫マタイ27:54
 「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、『本当に、この人は神の子だった』と言った。」

*受難主日のA年≪福音書≫マタイ福音書は「神の子」としてのキリストの十字架を描く。その「神の子」が十字架上で「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ぶ。この大きな矛盾に見える振幅のうちに、民を救う神の子の姿を見る初代教会の信仰が脈打っている。罪人を救うために罪人のところまで下ってゆかれ一体化された主イエスである。その苦悩が「わが神、わが神、なぜお見捨てになったのですか」に表われている。

*しかし、一体化しただけでは、罪人と運命を共にするばかりの悲劇の主人公でしかない。そうではなく、思いもよらないことだが、十字架は神の栄光のためであった。イザヤ53:5でイザヤが預言している。「彼の受けた懲らしめによって私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された」。彼は多くの人々の救いをもたらすために十字架にかかられたのだ。

*そうして新しい代が始まったことを、マタイは「そのとき、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った」と表現している。そうだ。キリストの十字架によって私たち全ての者のために新しい代が開かれたのだ。その中には、弟子たちだけでなく、今日登場するすべての人々が含まれる。「ローマの総督ピラト」「民衆を扇動する祭司長たちや長老たち」「バラバ」「『十字架につけろ』と叫ぶ民衆」「イエスを侮辱して鞭打つ 兵士たち」「イエスの十字架を担がされたキレネ人シモン」「イエスと一緒に十字架につけらた二人の強盗」そして「百人隊長」。敵も味方も、神の贖いの十字架の前には等しく無力な存在でしかなく、神の憐れみによってそれら皆の者が救われるのである。

◇「みことばの宅配便」は、御国への巡礼を共に歩む神の民に
主日聖句から日ごとの糧を分かつ祭司の務めとして発行されています。

月曜日:≪第一日課≫、火曜日:≪賛美頌≫、水曜日:≪ニケヤ信条解説≫、木曜日:
≪第二日課≫、金曜日:≪福音書日課≫、
日曜日:≪主日説教≫(三原教会・福山教会ホームページhttp://www.mcat.ne.jp/~
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