教育のページ(1) 1997年度の通信から

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 分配法則、結合法則、方程式・・・・・・・・
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 ax+bx=(a+b)x ・・・・・・・・・ どこかで見たことがある式でしょう。実は、中学校の数学の時間に学習するものですが、小学校4年生の算数でもこれと似た式が登場するのです。単元で言えば「べつべつに、いっしょに」の中に出、次の「式と計算」のところでも出て来る式です。□×△+○×△=(□+○)×△ という形で出て来ます。□のところを「a」○のところを「b」、xのところを「△」に置き換えると全く同じ式になってしまうのです。これは、分配法則、結合法則という形で中学校へ行って学習するものなのです。「なぜ、こんなに難しいことを・・・・・・。」と思うのは、私だけでしょうか・・・・・・。
 また、こんな式も、4年生の算数の教科書には出てきています。□×8=32 (32÷8=4 □=4) これは、将来的には、方程式につながっていくものです。さすがに、4年生では、まだそんなに難しいものではありませんが、子どもたちにとっては、やはり「難しい」と感じているようです。
 先頃、「数学と物理で飛び抜けた才能を持つ者は、高校の3年間を待たずに大学に入ることが出来る」ということが新聞やテレビなどで報道されていましたが、それについていけない者はどうなるのかと、敢えて聞きたくなります。
 確かに、ある一定の分野の技能に優れた者が、その技能をいっそう高めていくということは否定しません。しかし、その反面、能力別に「輪切り」にされ、いっそう序列が進んでいくことにもなりかねないのです。現在の教育制度は、また、序列と選別の方向へと向かっているように思います。高校入試における総合選抜制度の廃止もその一つと言えるのではないでしょうか。

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 52年目の夏・・・・
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 いよいよ、明日、8月6日は、広島に原子爆弾が投下されて、52年目になります。いわゆる、”戦後生まれ”の私にとって、全く知る由がないことなのですが、母から話を聞くには、その日が、私にとっても、「運命の日」だったのです。 当時、私の母は、大竹にあったある工場に勤めていたそうです。1945年の8月6日は、広島に出張することになっていたのですが、何らかの理由で取りやめになったのです。
 その日の朝、母は、東寄りの空に、確かに「きのこ雲」を見たそうです。これは、紛れもなく、広島に投下された原子爆弾だったのです。もし、あの日、予定通りに、広島に出張していると、母は間違いなく、被爆していたことでしょう。そして、中心部に行くことになっていたようだったので、命も落としていたことでしょう。仮に運良く、生き残っていたとしても、原爆症による後遺症に悩まされていたにちがいありません。
 あの戦争が終わって、12年経って、私は、この世に生を受けましたが、生を受けることができたのは、母がいたからそこなのです。それから、40年経ちました。現在もなお、原爆症に苦しんでおられる方はたくさんいます。また、現在もなお、『核』の恐怖がなくなってはいないのです。一見平和に見える、現在。「平和」とは何か、「戦争」とはどんなものなのか、子どもたちと考えて行きたいと思っています。

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 パソコンの功罪
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 先日の授業参観では、パソコンを使ってローマ字の学習をしました。
 パソコンは1980年代になって急激に普及し、もはやテレビとか掃除機とか言った家電製品と同等のものになってしまいました。子どもたちの世界にも、電子手帳やファミリーコンピュータ、最近では「たまごっち」など、パソコンあるいはコンピュータに関連するものが普及し、今や切っても切れない関係になってきています。
 ここで、問題にしなければならないのは、そのパソコンやコンピュータをいかに使っていくかです。パソコンは使い方次第で大変便利な道具の一つになる反面、生活や人間関係までもズタズタにしていくこともなりかねないのです。
 パソコンは、まず計算を飛躍的に向上させていること、また、記憶力に優れていること、さらに、人間が苦手とする同じ作業を繰り返すような作業を何なくやってのけてくれます。
 しかし、パソコンは、人間の持っているあたたかい心までは読み取れないのです。例えば、受験などにおける成績によるランクづけ、偏差値による輪切りによって、どのくらいたくさんの人の心を傷つけているでしょうか。また、時間を忘れてゲームに熱中したり、パソコンのキーボードの前で頭を抱えるという姿、ひいてはそのことによってリストラされていく姿は、現代社会の病とも言えます。
 パソコンは、ほんとうに便利な道具だと思います。しかし、それは、パソコンを使いきってこと言えるもので、パソコンに”使われる身”になってはいけないのです。みなさんは、現在のようすを見て、どちらだと思いますか?

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 ここにいてよかった
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 「わたしはここにいます。」「あなたがここにいてよかった。」( " I'm here." "I'm glad you're there." という言葉の日本語訳です)という言葉があります。これは、ある放送局のキャッチフレーズになっていますが、私の好きな言葉の一つです。
 「ここにいてよかった。」────子どもたちが、そう言ってくれるよう、いつも願って、学級のあゆみを続けています。帰りの会の時に、「きょう、なになにができてよかったです。」とか、「きょう、なにができてよかったです。」と、だれかが発表すると、学級のみんなが拍手をします。こんな、子どもたちの言葉を聞くことができると、ほんとうにうれしくなります。もちろん、心底からそう言っているのでなければいけませんが。
 毎日、学校へ来るのが楽しい、みんなと顔を合わすのが楽しい、ここにいるのが楽しい、「ここにいてよかった。」ということになれば、勉強をしていくのにも、また友だちと遊んだりするのも、いろいろな意味での学校生活にも、意欲の涌き方がちがってくるでしょう。もし、その逆だったらどうでしょう。勉強がいや、学校へ行くのもいや、というふうになってしまい、子どもたちもそこで沈滞してしまうでしょう。
 「ここにいてよかった。」と、充実感を持って言えるような学級にしていきたいです。さらに欲を言えば、厳しさと優しさが両立していけるようにしていきたいです。

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 すたれゆく備後方言
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「あれ、どけぇあるんにゃあ。」
「ああ、それはもうとらげてしもうたけぇ、いまぁどけぇいっとるかわからんわぁ。」 
「よぉさがしときぃ。どっかへあるけんのぉ。」
「ほいじゃぁ、ようさがしとくわぁ。」
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 家庭の中で、こんな会話がかわされていることはありませんか。去年まで使っていた教科書とか、ずっと前に作った工作の作品など、何か”さがしもの”をしている時にかわされる言葉です。これらの言葉は、いわゆる「備後弁」で、広島県東部の備後地方で使われているものです。でも、最近、このような備後弁を使う人が少なくなってきています。
 この前の国語の時間に、備後弁がどのくらいわかるか調べてみました。私が使っていた言葉を中心に60語ピックアップし、それをプリントにして配りました。調べてみた結果、60語すべての備後弁がわかったという人が全体の2割ぐらい、45語以上わかるという人まで入れると、8〜9割にもなりました。これはちょっと意外でした。思っていたよりよく知っているという印象を受けました。
 しかし、実際の生活の中ではどうでしょう。テレビやラジオから聞こえて来る言葉は「共通語」がほとんどです。(日本語の表現はずいぶん乱れていますが)また、備後弁は、「あまりきれいな言葉ではない。」と、使うのを控えることも多いのではないでしょうか。
 でも、もともと備後育ちの私にとっては、やはり備後弁に親しみを持ちますし、備後弁がこれからも生き延びていってほしいと願っています。これは、単に備後弁の伝承にとどまらず、その地域「ふるさと」の文化の伝承にもつながっていくからです。

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 無限大の可能性
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 未来のことはわかりません。「一寸先は闇」というほどではありませんが、来年の今ごろ、ひいては20年先にはどんな世の中になり、子どもたちはどんなに成長しているのかは、だれにもわからないことです。
 明日の朝に東から太陽がのぼることは確実なことですが、明日、大地震が起こるかどうかは、だれにもわからないことです。
 もし、未来のことがすべてわかっていたならば、その人生はつまらないものになってしまうでしょうし、人生に夢を持たないでしょう。
 未来のことがわかっていないからこそ、「ぼく、わたしはこんな人になりたい。」とか、「将来、大人になったら、こんなことをしたい。」などと、夢をふくらませて、その可能性に向かって突き進んでいくものなのです。
 どんな可能性があるのか────それは、無限大の可能性だと信じたいものです。その無限大の可能性があるからこそ、わたしたちはそれを最大限に伸ばせるよう日々の努力をしていかなければならないと思っています。子どもたちも、大きな夢を持って、日々前進していってほしいものです。
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 遠山 啓 さんの著書からその一部を紹介しましたが、上に書いたことと同じようなことが、書いてありました。人間は必ず、「プラスα」を持っているものであり、無限大の可能性を持っているものだと思います。それを、学校の成績によって、序列をつけたり、必要以上の競争をさせたりしていることは、社会にはいくらでもあります。
 私自身も、「偏差値」の犠牲になった一人です。当時の受験勉強したことが、どれほど実社会に出て役に立っていないように思えてなりません。ただ、一つ思うことは、より広い選択肢を持つためにもしっかり勉強をしていってほしいということです。それは、決して、人を蹴落とすために(競争原理)使われるものであってはならないということです。

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 頂上のない登山口
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 私は以前、民間の企業に勤めていましたが、10数年前に転職を決断し、その後、夢がかなって現在の職業に就いています。
 転職をした時、ある人(中学校の時に教わった先生)から、「君も頂上のない登山口に立ったね。」と言われました。その時は、とくに気に留めなかったのですが、後になって、まったくその通りだと思いました。『教育』という仕事は、いくらやってもそれで良いという、極限というものがないのです。子どもたちは無限に伸びるはかり知れない能力を持っているのですから、私たちは、それを最大限に引き出していくとりくみをしなければならないのです。
 それがどんなものなのかは、みんなそれぞれに違います。それを見ることのできる”天眼鏡”のようなものがあればいいのですが、そんなものはどこにもありません。しかし、じっとしていても何も変わりはしません。これからも、見えない頂上を目指して日々努力していきたいと思っています。

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 分数の勉強はむずかしい?!
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 3学期に入ってすぐに、分数の学習が始まりました。分数は3年生のときに学習していますが、4年生になっては、初めて登場します。3年生までは、1より小さい分数についてでしたが、4年生では、1より大きい分数を扱うようになります。そのため、「真分数」「仮分数」「帯分数」という用語も出てきますし、帯分数のたし算やひき算は、今まで習っていたものに比べてずいぶんむずかしいものに感じていくにちがいありません。
 でも、分数の計算をよく調べてみると、「あまりのあるわり算」やかけ算とたし算の組み合わせになっていることに気付きます。(書き表し方こそ違いますが) 算数という教科は、ちょうと階段を登るような感じで内容が構成されていると言われます。その階段を踏み外さないように日々の指導をしていきたいと思っています。

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 自分にやさしく、人にもやさしく
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 これは、ずっと前にある先生から聞いた話です。
 人間の発達段階によって、他の人と接していくときに、4つの段階を辿るということです。
 第1段階は、「人にやさしく、自分にやさしく」です。生まれてから幼児のころは、まだ、自分のことも人のこともよくわからないときです。また、自分にも他人にも甘えたいのもこの時期でしょう。
 ところが、成長してくるにしたがって、人のことにはよく気付くようになってきます。自分のことは棚上げにしておいて、人の行いを批判することが多いのがこの時期で、小学生や中学生ぐらいの年齢でしょうか。これが、第2段階です。
 さらに成長していくと、自分のこともよく見えるようになって来、人にも厳しいのですが、自分自身に対しても厳しいという時期があります。「正義感が強い」という形で端的に現れるようです。また、「反抗期」にもよく見られ、親や社会と意見が対立したりすることもよくあります。ときには、「自分嫌い」になるというように、マイナスの形で現れることもあります。これが、第3段階で、第2段階の現象と相前後して現れることが多いように思います。
 第4段階になると、『寛容』というか、人に対してやさしい部分が見られるようになってきます。しかし、依然として自分には厳しくあたります。「まだ、自分は発展途上で、まだまだ人間として成長していかないといけない。」という形で・・・・。責任を自分に求め、他人に責任を転嫁するということは、だんだん少なくなってきます。人格も形成されて、もうすっかり大人としての考え方ができるようになってきます。
 さて、第5段階とは何でしょうか・・・・。
 その答は、「自分にやさしく、人にもやさしく。」です。これは、第1段階のそれではなくて、『抱擁力』のある、あらゆる意味で成長した段階です。でも、ここまでに到達するのは並大抵のことではできないと思います。
 さて、ここまでの話を聞いてどう思われますか。私は、第5段階に到達したときは、「この世に生かされてよかった。」と思う、人生の『終着駅』の時だと思いました。そういう生き方ができるといいですね。

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 算数ぎらいの”特効薬”
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 学年が上がるにつれて算数ぎらいの子どもたちが増えてくると言われます。
 どの教科においても、学年が上がるにつれて、得意・不得意がはっきりしてくる(自分自身でもそれとわかる)ものですが、算数はどちらの場合でも、上位に入る科目の一つであるようです。
 この科目を得意にしているのならよいのですが、不得意にしている人にとっては、”目の上のたんこぶ”と言うか、鬼よりもこわい科目であって、算数の時間が憂鬱でたまらないのではないかと思います。学級のようすからは、幸い、そのような状況は、今のところ、そんなにありませんが、これが高学年になると顕著になってきます。
 ところが、算数という教科は、”答が一つ”になるものが多く、そういう意味では大変易しい科目であるとも言えるのです。ただし、これには条件があって、その条件とは、計算が速く確実にできるということです。
 算数が得意な人は計算を苦手にしていることはまずありませんし、計算を苦手にしている人の中に算数が好きだという人もあまり多くないと思います。1年生のころに算数がきらいだったという人もあまり多くいないでしょう。ところが、3年生のころからだんだんわからなくなってきて、今はちょっときらいになってきたという人が多いのではないでしょうか。
 これには、はっきりとした原因があります。それは、基礎計算である「くり下がりのあるひき算」「九九」「あまりのあるわり算」が完璧にできるようになっていないからなのです。計算マシーンになりなさい、と言っているわけではありませんが、算数を得意な科目にするためには、この基礎計算をたくさんやっていくことにより自信をつけていくのが、一番の”特効薬”なのです。
 今、4年生では、分数計算の学習をしています。この分数計算の中にも、基礎計算がたくさん出て来、その応用であると言えます。学級でも、そのことを子どもたちに話をしながら、日々の学習にとりくんでいます。一人でも、算数ぎらい(どの科目でも「きらい」な人)をつくらないように、がんばっていきたいと思います。

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 町工場物語
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 「1日15日」と言っても、ご存じない方もおられるでしょう。
 今から30年ぐらい前の話ですが、私の父の勤めていた工場での休日が、毎月1日と15日になっていたのです。つまり、1月に2日しか休みの日がないのですから、さぞかし大変だったことと思います。
 私も、当時のことを少しは覚えていますが、休日でさえも顔を合わすことはあまりありませんでした。増してや、勤めに出る日は朝の暗い内に家を出て行って、仕事から帰って来るのは、晩の7時、8時と言った具合でした。
 今は、どこの工場でも、あの頃より休日は増えているようですが、納期が迫ると休日返上で働かなければならないということをよく聞きます。そうまでしないと、次の時に仕事がもらえなくなることもあるのです。親会社−下請け−孫請けという関係は、現在でも厳然として残っているのです。
 私の妻の父は、そういう町工場で働いていますが、いわゆる「バブル」がはじけてからは、工場の経営がいっそう厳しくなったと話していました。親会社からは製品(部品)の単価を下げるようにと要求され、厳しい状況のため充分な賃金が払えないので人材もなかなか集まらないのだそうです。単価を切り詰められると、採算を合わすためには製品をたくさん作らなくてはならないのです。例えば、単価1000円のものを800円に切り詰められると、同じ収益を上げるためには25%は余計に品物を作らなければならないということです。当然、労働もそれだけ厳しくなるわけですから、ますます”敬遠”されてしまうのだと聞きました。(しかし、実際には、品物の発注は減っているということでした。)
 日本の製品は、欧米諸国の製品に比べて安い(ただし、いまでは東南アジア諸国の現地生産によるもっと安い製品が入ってきていますが)のは、そういう町工場の人たちが一生懸命に働いているからです。また、「内職」という、独特の生産体系に支えられているのです。
 私たちは、そのような中で、何気なく製品を消費しています。そういう製品から恩恵を受ける時に、生産者一人ひとりの”心”を忘れたくないものです。また、こういう日本の経済の二重構造にも目を向け、そこから起因しているさまざまな社会問題についても考えていかなくてはなりません。

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 中学3年生にとっての”春”
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 先週の6日、7日には、公立高等学校の入学試験がありました。このころになると、つい、その試験の最中にある中学3年生に気持ちが行ってしまうのです。と、いうのは、私が今の職業に就く前、中学3年生の人たちの受験勉強を何度かみたことがあるからです。(塾と言えるほど大げさなものではありませんが。)当時、勉強をみた中学生たちに、「君たちの春は入試に合格してからやって来るんだ。それまでは苦しくてもがんばっていこう。」と、声をかけ励ましていました。幸いにして、私がみていた中学生たちは、合格してめでたく”春”を迎えることができましたが、それまでは、ほんとうに不安な日々を過ごしたにちがいありません。
 今の4年生の子どもたちも、あと数年すると、まちがいなく中学3年生になっているでしょう。そのころにはどんな中学生になって、どんな中学校生活を送っているかは分かりませんが、今のような受験体制が大幅に変わっているということはまずないでしょう。私がかつてみたような中学生に近い日々を過ごしているのではないかと思います。
 ご存知のように、今年から総合選抜制が廃止されました。新聞報道によれば、そういう高校の志願者の倍率が高くなったということでした。受験生にとっては、これから合格発表までを、今まで以上に不安な気持ちで迎えることになります。
 もちろん、高校・大学と進学していくことがすべてではありませんが、いずれにしても、充実した生活を送り、この時期に”春”を迎えてくれていることを祈っています。

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 日本国憲法の前文から
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 第2次世界大戦で日本は敗北し、戦争責任を内外に認めました。そして、その反省に立って、今の「日本国憲法」が制定され、現在に至っています。日本国憲法の前文には、次のように書かれているところがあります。
 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するものであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確信する。われらは、いずれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立とうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
 さて、この前文は、何を物語っているのでしょうか。日本は第2次世界大戦で、アジア諸国を侵略し、他国の国民の人権を侵しました。また、国内においては、「治安維持法」や「治安警察法」などを盾にして、国民の人権を抑圧しました。そのような、大戦中の日本のしたことの反省に立って、「民主主義」「国際平和主義」「主権在民主義」の3つを柱とする日本国憲法を制定し、その前文に、その理想と目的を達成していくことを掲げてました。
 ところが、最近(正しくいうとずっと以前からのことなのですが)、再び、戦争の道を歩むかのような動きが出てきています。まるで、日本国憲法を知らないか、それとも無視しているかのように感じます。
 日本と同じように、第2次世界大戦で敗北した、ドイツやイタリアでは、そういう戦争責任について明確に反省し、国旗や国歌や建国記念日などを見直し、あるいは廃止しています。しかし、日本では、その戦争責任を未だに曖昧にし、現在まで引きずっています。ましてや、憲法第9条の改正(改悪)や、戦前のような天皇制の強化につながるような、改正をもにらんでいるような勢力があるのも事実です。こういう動きは、教育の中に端的に現れてきます。たとえば、学習指導要領の改訂や教科書の検定がそれにあたるでしょう。こういう、社会の動きに対して、鋭い目を向け、それに立ち向かうことのできる、人を創っていきたいと考えています。それが、日本国憲法の精神を実現していくことだと思うのです。


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