教育のページ(2) 1998年度の通信から

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 『時計』の学習はむずかしい!?
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 4月の算数の学習内容は、『時計』でした。2年生では、時計のあらわしている時刻を読みとること、「何分前」とか、「何時間後」というような、時間から時刻を求めること(その逆もある)、そして、「1時間は60分」、「1日は24時間」であること、また、1日は「午前」と「午後」の12時間ずつに区切られることを学習しました。
 しかし、これがなかなか”難解”のようで、子どもたちも「よくわからない。」と言っている場面が多くありました。
 「時刻と時間」の学習は、2年生以外でも出て来ますが、他の計算とちがって、60進法であること、また、「時刻」と「時間」の意味を混同しやすいこと、さらには、時計の指針の読み方が2通りあり(3年生になって学習する「秒」を加えると3通りになる)、同じ文字盤でも、たとえば「8」時と読むときもあれば、「40」分と読むこともあるというように、単純にはいかないので、理解するのに時間がかかるようです。『時計』の学習は、これからも、繰り返しやっていくことによって、いっそうの定着をはかっていきたいと思っています。

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 木を見て森を見ず
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 「木を見て森を見ず」が正しいのか、それとも、「森を見て木を見ず」というのが正しいのか知りませんが、これは、私が教職に就く前に、ある中学校の先生から聞いた話です。学級の子どもたちと、いっしょに勉強をしたり、生活していると、この言葉の意味がわかり、その重さをひしひしと感じることがあります。
 『木を見て森を見ない』───一人ひとりの子どもたちばかり見ていると、全体のようすが見えなくなり、また、『森を見て木を見ず』───だったら、全体のことばかり考えていまい、子どもたち一人ひとりの願いを汲み取れない、ということになるのです。したがって、どちらも必要で、その一方が欠けていてもいけないということになります。
 この例えの関連して、『森は木を育てる』とも、その先生は言っておられました。『学級』、『学校』という集団(=『森』)が、一人ひとりの子どもたち(=『木』)を育てることにもなるのです。
 「一人ひとりを大切にする」教育が必要だと言われますが、「仲間づくりを進める」教育も必要なのです。
 子どもたちが学校に来て、みんなと楽しく勉強をしたり、学校生活が送れるようにすることが、私たちがしなければならない課題なのです。

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 難しい「かさ」の単位
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 いま算数の時間に、「リットル」「デシリットル」「ミリリットル」などの単位が出てくる「かさ」についての学習をしています。
 「かさ」は、学年が上がると、「体積」という単元になって再度学習し、また、「単位」については、6学年に「メートル法」として、体系的に学習することになっています。
 ところで、この「かさ」という単元ですが、子どもたちにとっては、なかなか手強いもののようです。その原因は、最初に書いた「リットル」「デシリットル」「ミリリットル」の3つの単位が一度に出てくるからです。
 教科書には、「1リットル=10デシリットル」、「1リットル=1000ミリリットル」と出て来ます。しかし、日常生活において「デシリットル」は、あまり使われなくなっています。なのに、ここで「デシリットル」が出てくることによって、子どもたちは混乱してしまう傾向があるようです。
 先ほども書いたように、「メートル法」については、6学年で詳しく学習します。「かさ」の場合は、元の単位の前に「デシ」「ミリ」、そして「キロ」の言葉をつけることによって、単位の大きさを表すようになっています。
 わざわざ、難しいことを習うことによって、子どもたちの”算数ぎらい”を作っているのではないかと思うのは私だけでしょうか・・・・。

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 算数・数学の登竜門『九九』
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 いよいよ、算数の時間に「かけ算」を学習するようになりました。
 かけ算、すなわち『九九』のことですが、算数・数学で学習する単元の中に『九九』の要素を必要とするものが8割ぐらいを占めていると言われます。思いつくままに単元名を挙げてみますと、「面積」「体積」「比」「比例」「割合」「分数」など、実にたくさんあります。2年生で学習する「時刻」の学習においても、例えば文字盤の「7」のところは「35分」と読むというふうに、文字盤の1目盛りが5分ずつになっていて、上の例では、「5×7=35」という式をあてはめることができます。
 ところで、この『九九』が意外にやっかいなもののようで、高校生になっても完全にマスターしていない人も1割前後もあいるというデータもあるそうです。とくに、6の段、7の段、8の段が難しいようで、多くの子どもたちが、これらの段で悪戦苦闘しています。
 『九九』は、2年生の2学期で学習することになっていますが、苦手な人を1人でも作らないようにしていくよう、私も努力していきたいと思います。なにしろ、『九九』は、算数・数学を学習していく上での、登竜門と言ってもよい重要単元ですから・・・・。

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 生と死を見つめる
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 1994年9月13日に、私は父をなくしました。もう長らく病気を患っていましたので、ある程度の覚悟はできていましたが、それでもやはり、「死」というものは、大変辛いものでした。
 父のなくなったその日、私は学校で授業をしていて、電話で「父がもうだめだ。」ということを知らされ、病院へとんでいきました。病院でしばらく待たされ、やっと面会することができた時には、既に危篤の状態で、集中治療室で横たわっていました。
 「身内の者たちに知らせろ」ということで、私が実家や親戚中に電話をかけていたその時、電話口の近くにいた人が「電話を貸してください。」と言うので、かわってあげると、その人は、息を切らしながらも生き生きとした表情で、「今、赤ちゃんが産まれた。」と、話していました。
 一方では、「死」(その時点ではまだその直前ではありましたが)を伝え、その一方では、「生」を伝えていたことになります。「生」を伝えていた人は、”よろこび”を一生けん命に伝えていましたが、父の「死」を迎え、その”かなしみ”を伝えないといけない私は、大変複雑な気持ちになりました。この”かなしみ”をどうしたらよいものかと。
 やっと、電話での連絡が終わり、父のいる部屋に帰ることができましたが、その1時間後ぐらいに父の心臓は停止しました。父はとうとう永眠したのです。それから、病院を出、いったん自宅に帰りました。その時、ふっと窓の外を見ると夕焼け色に染まった虹が東の空に見えていました。「ああ、父はあの虹の中を通って天国に行ってしまうんだな。」と、思いました。あの時の光景は、今でも私の頭から離れません。
 「人はだれでも、この世に「生」を受けた以上、必ず「死」を迎える」ということを、父の死を通して実感しました。今は、病院通いの日が多くなりましたが、そこでも、「生」と「死」の場面に出くわすことがあります。そういう度に、今は亡き父のことを思い出すのです。
 子どもたちの中にも、「生」や「死」の場面に出会ったことがある人もいるのではないかと思います。それが、家族や親戚に限らず、例えば家で飼っている動物である場合もあるでしょう。そのような場面を通して、命の尊さや「生」と「死」とは、どんなことであるのか、考えることができるようになってほしいと思います。また、自他の命を大切にできる人になってほしいと思うのです。これからも、いろいろな場面を通して、子どもたちに語っていきたいと思っています。

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 ゆび九九のはなし
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 「ゆび九九」と言ってもこ存知のない人が多いと思いますが、これもある教育雑誌に載っていたものです。計算プリントにも「ゆび九九」の解説が載っていたので、子どもたちにも配って、授業のなかでもやってみました。
 もうずいぶん前に読んだものなので、記憶が不確かなところもありますが、この両手の指を使って九九の計算をする方法は、日本の農民(室町時代だったと思う)が考え出した方法なのだそうです。
 具体的には、「パー」の状態から、指を折っていき、「6」からまた指を開いていくという方法で数を数え、その開いている指の数を10倍したものに、折っている両手の指の数をかけ合わせたものを足すと、計算ができるのです。私も、はじめてやった時には、「えっ。」と思いましたが、やってみると意外に簡単なので、子どもたちにもやり方を伝えていくようにしてきました。
 かけ算では、「6×8」とか「7×8」など、6の段、7の段、8の段がとくに覚えにくいと言われています。ところが、現行の教科書では、このむずかしいと言われる、3つの「九九」の段が、いとも簡単に扱われているのです。学級では、前号の通信でも書きましたように、「読み上げ九九」や「読み上げ文章題」、「ぐるぐる九九」や「九九カルタ」、そして、「九九の暗唱」やドリルやプリントなど、いろいろな方法で「九九」を学習させています。
 「計算力ややった数に比例する」と、よく言われますが、とにかく数をこなすことが上達の近道です。またそうすることにより、“数字アレルギー”を解消できるものと考えています。子どもたちに聞いてみても、「九九の学習が好きだ。」という返事が返ってくることが多いので、成果が少しずつ表れているのではないかと思います。
 2年生での最大の難関である「九九」(かけ算)を、もっともっと“大好き”にしていくために、これからもいろいろと工夫をし、学習を積んでいかせたいと思います。

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 日本語の乱れ
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 ずっと前から言われていることなのですが、最近、日本語の表現のしかたが乱れてきているということです。私たちは教育の現場におる者としてとくにそのことに気を配らなければならないのですが、子どもに限らず大人のほうも、その使い方が乱れてきていると言えます。
 代表的なものが『ら』ぬき言葉です。例を挙げると、「見れる」で、これは正しくは「見られる」なのです。その他にも、「けど」とよく言いますが、これも正しくは、「けれど」なのです。この前も、ある学年の人が作文を書いていて、それを見たのですが、「けれど」の言葉を使って書いている人は全くいなくて、全員が「けど」になっていました。話し言葉では、「けど」と言うことが多いので、それがそのまま書き言葉になっているものだと考えられます。
 「・・・・じゃん。」「・・・・よぉー。」も頻繁に使われているようで、日常の会話ではもちろんのこと、テレビに出てくるタレントなども、当たり前のように使っているようです。それが、目上の人であろうとなかろうと・・・・。
 もう一つ、気になるのは、「スイマセン。」です。これは、もちろん、正しくは、「スミマセン。」です。ものごとが済んでいない(=済まない、済みません)からきているのです。私たち大人も、つい、「スイマセン。」と話しているのではないでしょうか。
 言葉というのは、その国の文化をも表しています。最初に書いたように、私たち教職に携わる者として、そのことにとくに留意して、子どもたちに接していかなければならないと思っています。

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 「日本語」って、むずかしい!?
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 国語の勉強をしていて、「『日本語』って本当にむずかしいな。」と思うことがよくあります。日本語が他の言語に比べてむずかしいと言われるのは、ご承知の通り、その言葉を言い表す(書き表す)のに、いろいろな文字を使うということです。
 まずは、ひらがな。そして、かたかな。この2種類の文字だけでも90文字以上もあるのに(拗音や促音=小さく書く文字を加えるとそれ以上になりますが)、また、「点」「丸」「かぎ」などの記号です。その上に、2000字を越える漢字と、ローマ字あるからです。ついでに算用数字まで入れると実に膨大なものになってしまいます。
 これらの文字を小・中学生までの年齢に覚えなければならないので、正しく表記したり、話したりするということは、想像以上にたいへんなものだと思います。 さて、2学年までに学習する文字と言えば、ひらがなとかたかなのすべてと、一部の漢字ということになります。でも、実際には、ローマ字のもとになっている「アルファベット」や“?”“!”などの記号も、目にはふれています。
 これらの文字を駆使して2年生でも、毎日の勉強をしています。今は、かたかなの使い方について勉強していますが、まだ、ひらがなとかたかなが混在していることがよくあります。子どもたちの書いた日記を見ると、「ブランコ」や「キャッチボール」が、「ぶらんこ」、「きゃっちぼうる」になったりしていることがよくあります。
 これからも少しずつ学習を深めて、かたかなを正しく使えるようにすること、ひいては正しい日本語が使えるようにしていきたいと思っています。


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