教育のページ(3) 1999年度の通信から

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 タテの線を揃えよう!
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 「タテの線を揃えよう!」
 と言われても、何のことだかわかりますか?
 これは、子どもたちのノートを見て、私が感じていることです。
 まず、国語の場合。漢字などの書き取りの練習で、タテの画が斜めに曲がって書かれている場合があります。これは、書く時の姿勢が原因になっているのだと思いますが、これが直ればずいぶんきれいに見えるものなのです。 次は、算数の場合。
 かけ算やわり算の筆算での計算の場合、タテの列がきちんと揃っていなければ、まず計算まちがいをしてしまいます。また、分数で約分をする時でも、正しく書かないと同様に計算まちがいをしてしまいます。「計算が苦手だ。」と思っている人は、その点をチェックしてみるといいと思います。
 また、漢字にも言えることなのですが、文字を正確に書くことです。「0」と「6」、「2」と「3」、あるいは、「1」と「7」は雑に書いてしまうと見分けがつかなくなるので、気をつけてほしいと思っています。私自身、黒板の文字が行が進むにつれて右下がりになる傾向があるので、気をつけていきたいと思っています。

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 1人で食事をする子どもたち
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 この前、「知っていますか子どもたちの食卓」という番組で、子どもたちの食事のようすや体の変化について大変気になる内容が紹介されていました。
 実を言うと、今から17年前にも、「おはようジャーナル」という朝の帯番組の中でこのことが採り上げられ紹介されていました。そして、これは「特集」とても報道され、当時反響を呼んだ番組だったのです。私も、その前回の放送をはっきりと覚えていて、今回の放送で、「あっ、あの特集の再調査だ」とすぐにわかりました。
 今回の調査でわかったことは、前回にも増して1人で食事をする子どもたちが増えているということ。また、朝食や夕食で、「主食」「主菜」「副菜」の3品が揃っていない場合が大幅に増えていること。そして、「体がだるい」「朝からねむたい」などの体の不調を訴える子どもたちの割合が増えているということでした。番組では、子どもたちが1人で食事をしている背景として、塾に行くなど夕食の時間が一定ではないこと、また、食事の時に3品が揃わない原因として、コンビニやファーストフード店などで、自分で食品を買って食べているなどを例として挙げていました。  たしかに、17年前と現在では、子どもをとりまく社会の環境は大きく変化しています。そういう社会の変化が子どもたちの食生活に大きく影を落としているのだと思います。しかしそうは言っても、これらの原因を「社会のせいだ」と簡単に片付けるには問題がありますし、家庭の状況によってはどうにもならないこともあるのも事実だと思います。番組でも紹介されていましたが、給食での指導や家庭科での食物学習を通して、「食」について、これからも子どもたちといっしょに考えていきたいと思っています。

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 漢字の力
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 今から20年あまり前、私が受験生だったころの話です。
 受験場で国語の問題用紙と解答用紙が配られたとき、私はそれを見てびっくりしていまいました。と、言うのは、同じ大きさの解答欄の枠が何と40個もあったからです。
 「何だ、これは!」と、うなりました。でも、問題を見るなり、「やった!」と思ったのです。それというのは、前半の20問は漢字のふりがなをつける問題で、後半の20問は漢字に書き直す問題だったのです。ふつう、国語の入試問題と言えば、漢字に関するものは数問ぐらいのものです。ところが、それが全体の半分以上を占めていたので、ほんとうにこんなことがあるのかとびっくりしたのでした。
 高校入試にしても企業などの採用試験問題にしても、漢字に関する問題は最初に置いてあることが多いようです。したがって、最初の漢字でつまづいてしまうと、後の問題にも影響が出て来るということです。小学校で学習する漢字は1006字で、そのうち6学年では181字学習していきます。この1006字の重圧に負けることなく、漢字の学習に立ち向かっていってほしいと願っています。
 蛇足になりますが、中学校卒業までに約2000字の漢字を学習します。そのほとんどが「常用漢字」と呼ばれるもので、新聞記事などもこの常用漢字の範囲内で書かれています。(そうでないものには、よみがながふってあります。)2000字というと、ずいぶん多くに感じられるかも知れませんが、「漢字の国」中国の人たちに比べれば(最近、略字が増えてきていますが、それでも数万字に及ぶ)、考え方を変えれば、日本の小・中学生はかなり楽なのかも知れませんね。(!?)

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 表現の自由と人権
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 国語の授業中、教科書の物語文を音読している時に、「あれっ?!」と思うようなことがありました。
 それと言うのは、子どもたちが読んでいる文章と私が手にしていた教科書の文章表現がちがっていたからです。同じ教科書でも、子どもたちが使っているのは今年配布したもの、私が手にしていたのは、それより前の年から使っていたものだったのです。
 私が手にしていた方には、「首をちょん切る・・・・」というような表現があり、子どもたちの方のは、それが「足をすくわれる・・・・」というように表現が変わっていました。(どちらにしてもあまりよい表現とは思いませんが・・・・。)
 最近のテレビ番組を見ていると、再放送のドラマやアニメなどで、話している言葉がふっとかき消されているのを耳にすることがあります。また、バラエティー番組などで、「只今の放送の中で不適切な表現がありました。」とお詫びしていることもときどきあります。
 「表現の自由」は憲法でも保障されています。しかし、人権を侵害してまでは許されないということを、今回の国語の授業の中でも、子どもたちに伝えていき、考えていきました。

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 「食」を考える
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 この前の健康指導の時間には、米のすぐれている点についてとジュースに含まれている砂糖の量などについて学習しました。
 米は栄養面でパンよりすぐれていることを学習したとき、子どもたちもうなづきながら聞いていました。
 ところで、その「食」のことなのですが、日本人が食べるお米の量は、ピーク時の3分の2ぐらいになっているのだそうです。さらに、ファーストフード店などの進出などによって、「食」生活そのそのも大きく変容しているそうです。
 ある家族が、夕方の食事で何を食べるかについて相談している時のことです。
 「『親子丼』が食べたい」ということで、買い物かごに入れたいたのは、そのレトルトパックだったのです。「チン」すればすぐに食べられるということで確かに便利なのですが、果たしてそれでよいのかと、考えてしまうような光景だったということです。前の通信でも書きましたが、ファーストフード店で買ったお菓子やパンだけで食事をすませてしまう子どもたちが急激に増えています。今ごろの子が、よく「キレル」と言われますが、こういう食生活も原因になっているのではないかと考えられているそうです。
 毎日の何気ない食事。こういう視点からも考えていきたいですね。

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 象徴天皇制に思う
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 11月12日は、いまの天皇が在位して10周年になるということで、祝賀行事が行われたことで、その日のテレビで、また翌日の新聞で報道されていました。
 夕方から行われた祝賀集会では、角界の著名人も出席していましたが、何か異様なものを感じてしまいました。とくに、元X−JapanのYoshikiやGLAYやSPEEDなども列席していたということですが、どう見ても、若者を集めるための手段であり、実際にそこへ来た若者の多くも、それを見るために来たと言っていたのです。
 日本国憲法の第1条には、「天皇は国民統合のための象徴である」と謳ってありますが、この「象徴」とは、屋根で言うと「鬼瓦」のようなものです。家の屋根の目立つところにありますが、特にその機能はなく、有っても無くてもよいものなのです。憲法の中でも、「象徴」ではあっても、「国事に関する行為のみを行い、国政に関する機能を有しない」と規定しています。日本国憲法の11条では基本的人権の享有について、14条には、「すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分や門地により、政治的又は社会的関係において、差別されない」と規定し、また、「華族その他の貴族は認めない」とも規定しています。
 今の天皇が即位していろいろな行事が行われてきましたが、本当に「象徴天皇」なのかと思ってしまうようなことがよくあります。テレビや新聞で大々的に報道されたり、「○○さま」とか「お出ましになる」などの特別な呼称や用語など、やはり「特別な人」という感じがしてなりません。「特別な人」を作るということは、いつまでも差別を残すことだと思います。それを、「まあいいや。」とか「仕方がない。」と済ましていくのではなく、「どうしてなんだ。」とか「おかしいことはおかしい。」と気付き、それを訴えていけるようにしていきたいものだと思います。

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 ファニエスト・イングリッシュ
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 毎週日曜日の午後7時からの人気番組で「さんまのスーパーからくりテレビ」というのがあります。私もときどき見ていますが、その中で「ファニエスト・イングリッシュ」というコーナーがあり、毎回その番組で出て来た人が英語で“珍解答”を話してくれます。
 その英語というのが片言であったりデタラメの表現であったりと、爆笑を買うようなものですが、解答者は必死になって英語を話そうとしているのがそれがけっこうおもしろいのです。もちろん、番組側でもわざとおもしろそうなものを選んでいるのだと思います。
 さて、英語は、中学校で3年、高等学校で3年、短大で2年、大学で4年と、長い人では10年は学習していることになります。さらに、小学生でも(例えば塾などで)学習している人もいますし、大人になっても英会話教室に通っている人もいるので、10年以上は英語とつき合っている人も多いのではないかと思います。私自身もかなり長く英語とつきあってきたのですが、英語は苦手科目の1つであったし、今ではほとんどまともに話せないのです。
 さて、私が英語嫌いになってしまった原因なのですが、やはり「文法」とか「品詞」とかいう「知識」の部分がひっかかったからではないかと思っています。文法がどうだこうだの、これは名詞だとか形容詞だの、現在形だとか過去形だとかというように、「言葉を話す」ということよりも、そういう部分が先行していたのではないでしょうか。
 言葉は相手と相手を結ぶ大切な道具なのです。要は、通じればいいのではないかと思いますが、実際にはそうはいかないようですね。現在の中学校や高等学校の英語教育がどうなっているのかはよくわかりませんが、もっと生活に役立つようなものになってくれたらいいなと思っています。決して受験英語になってほしくないものです。私のような「英語嫌い」の人を作らないためにも・・・・。

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 最近の授業の中から
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その@・・・・円すいの「辺」て、あったっけ?

 算数の時間のことです。立体図形の「角すいと円すい」について、底面や側面の形や数、また、それぞれの立体の頂点や辺や面の数を調べているときのことでした。
 角すいの場合、頂点の数は底面の角の数プラス1に、辺の数は底面の数の2倍に、また、面の数は底面の数プラス1になるという“法則”があります。この前の授業でそれを調べていきました。そこまではよかったのですが、円すいの辺の数を調べていて、「あれっ。」と戸惑ってしまいました。学校のパソコンの「立体図形」のソフトで、辺の数を調べると(その部分をクリックすると)円周の部分を「辺」として表示するのです。「さて、曲線でも辺と言えるのか。いや、辺は確か直線のはずだった。」と、ちょっと考え込んでしまいました。円すいの「円周の部分」は、「縁」と言ったらいのかな? 教科書ではそこまで扱っていなかったので、中学の数学の先生に聞くなどして調べてみます。

そのA・・・・いっぱいあるよ。三字以上の熟語

 今度は国語の時間のことを書きます。今、国語は「三字以上の熟語」という小単元を学習しています。この単元は、F先生といっしょにやっています。子どもたちも自分が知っている熟語を発表したりと、意欲的にやっています。□の部分に漢数字を入れて四字熟語を完成させていく問題でしたが、けっこう難しいけれど、楽しみながらやっていました。
 でも、こういう小単元。あんまり好きではないんです。新出漢字や読みかえの漢字が「ドバーッ」と出てくるからです・・・・。

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 「当然派」ではいけなかった
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 私は、学生(生徒)のときに、夏休みや冬休みになると、必ずと言ってよいぐらいアルバイトをしていました。「学資の一部に充てる」と言ったらかっこよいのですが、やはり自分の小遣い欲しさからでした。
 さて、その中でも一番よくしたことがあるのが、郵便配達のアルバイトです。兄が郵便局に勤めていたことと、郵便局が近くにあったからだと思います。そのなかのある日のことについて書いてみたいと思います。
 ある家に郵便物を配達していると、そこの家の人が不機嫌そうに出て来て、自分の家の表札を叩くようにして、「この郵便物はうちのではない。ウソを配るな!」と、ひどく叱られました。見ると、隣の家の郵便物だったのです。「郵便物は正しく配達されて当然だ。」とも言いたかったのでしょう。もちろん、誤配をしてしまった私が悪いのですが、ひどく腹が立ったのを今でもはっきりと覚えています。なかには、「いつもご苦労さんです。」とか、「寒いのに大変ですね。」などと、ねぎらいの言葉をかけてもらうこともよくありましたが、そういうときには、これからもがんばるぞという気持ちになったものです。
 さて、現在の私です。子どもたちと接しているとき、「これはできて当然だ。」「これは簡単だよ。」と、できてあたりまえだと思って、話しかけていることがよくあります。やはり、子どもたちのがんばりやその過程をしっかりみていき、「よくやったね。」と言える自分になりたいと思っています。

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 差し替えられていた写真
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 社会の時間のことでした。
 1937年に起きた「日中戦争」のことを学習している時、私は自分の持っている教科書のある写真について説明していました。「この写真の中にも書いてあるように、日本は中国の人々に対して残虐なことをしたんだよ。」と話しました。ところが、子どもたちは、「そんな写真は載っていないよ。」と話してきたのです。子どもたちの教科書を見ると、確かに「日本鬼的残虐!」と書かれた写真は載っていなくて、別の写真に置き換えられていたのです。その写真からは、戦争の頃の様子だというのはわかるのですが、どこの国のものかはよくわからない、つまり、戦争の残虐さや日本の戦争責任はわからないものでした。
 おそらく、「日本鬼的残虐!」という写真のほうは、あまりにも痛烈なので、子どもたちにそこまで教えなくてもいいのではないかと文部省の役人などからクレームがついた結果、差し替えられたのではないかと推測されます。
 現代史のなかで、日本がアジア諸国にどんなことをしてきたかについて、いろいろな資料をもとに明らかになってきていますが、「ナンキン大虐殺のような事件はなかったんだ」とか、「日本の戦争はまちがいではなかったんだ」などと、公然と主張している勢力もあります。
 同じように、ドイツもヒットラーの時代に大量の虐殺事件を起こしていますが、ドイツでは、この過ちを次の世代で繰り返さないために、はっきりと学校で教えているのだそうです。日本もドイツのように、過去の戦争をごまかすことなく教えていく必要があるのではないかと思います。とくに、「有事立法」とか「改憲論」が出てくる昨今。事実は事実として伝えていかなければならないと考えています。

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 「割合を使って」という単元
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 算数では、この前まで、「割合を使って」という単元をやっていました。数学的思考を深めていく単元なのですが、これが、なかなかの“難物”で、子どもたちを悩ませています。

  問題の例

 家から駅まで歩いたら20分かかります。また、同じ道のりを走ったら8分かかります。
 最初に15分間歩いた後、残りの時間は走ったとすると、走った時間は何分間ですか。

 <考え方>

 道のりの全体を「1」として、それぞれがどのくらいの割合になるかを求めて、走った時間を計算していきます。この場合は、歩いた距離は全体の4分の3、残りの4分の1の距離を走って行ったということになります。だから、残りの距離の割合を、1分あたりの走った割合で割ると、「2分間」という答が出てきます。

 実際の場面で、このような計算をするでしょうか?全体は「1」とはわかっているのですが、具体的な距離が示されていないのです。ふつう、全体の距離がわかっていて、それをもとにして計算していくと思います。今回、私は、授業の中で、ここをやった時に、全体の距離を「1600m」として、提示しました。このほうが分かりやすいと考えたからです。
 1600mを20分間で歩くと、その分速は毎分80mになります。また、同じ距離を8分間で走ると、分速は200mとなります。先ほどの問題で考えていくと、15分間で歩いた距離は1200m、残りの距離400mを分速200mで走ったということだから、400÷200で、簡単に2分間という答を導き出すことができるのです。
 なぜ、わざわざ、こんなことをやっていくのかと、首を傾げたくなります。これは、現在使用している教科書(会社)の特徴で、この社の教科書は、暗算や思考を重視しているからなのです。2年生の教科書でもそれが端的に表れていますが、繰り上がり計算をしていく時に、この社の教科書は暗算からスタートしていて、別の教科書では筆算でやるように教えています。どちらが簡単なのかは明白です。「具体から抽象へ」と、思考を深めていかなければいけないことはわかりますが、あまりにも抽象思考の度が過ぎると、「算数ぎらい」になってしまうのではないかと、私は思うのです。


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