6 景気(朝鮮交易)は追い風となったか。

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渋川一族の物語
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  博多の渋川一族は,この都市の活力を生かしきれず実力を蓄積できなかった。

  渋川一族は,九州最大の先進都市に居ながら,大いなるチャンスを失っている。

  備後国の渋川氏は,毛利氏や小早川氏とは全く規模を異にする小領主である。

  備後国の渋川氏が,九州の渋川氏を支援することは,全く不可能なことである。




@ 朝鮮交易の成果




博多港は大陸への玄関であり,韓国釜山
とは一衣帯水である。(博多港中央埠頭)
博多港

  渋川満頼は,博多で,今川了俊の成果を受け継いで朝鮮との交易を続けた。

  大内氏や小早川則平も,朝鮮交易を行っている。


  求めた物は仏典,人参,布,虎皮等,提供した物は鉱物,工芸品,東南アジアの産物等であった。

  倭寇に悩む朝鮮の状況と,交易を担う商人の成長,渋川氏の被官そして寺社の活躍があった。

  30回余の朝鮮交易は,先進都市・博多を基盤にして,交易と呼ぶに相応しい内容であった。

  渋川義俊が,少弐氏から博多を追放されると,一族は,交易の地の利を失った。(1423,1425)













A 御調別宮の規模




 
   広島城を築いた毛利氏は,地頭と
   して相模国
(厚木市)から入部した。
広島城

  備後国渋川氏の所領,御調別宮(みつぎべっく)の境界を示す「八幡大証文」が残っている。

  その区域について,その後,毛利氏が検地を行っている。(1591

  毛利氏の最盛期の状況を示すといわれる「八箇国御時代分限絵図」がある。

  それからも,備後国渋川氏の権益のおよその規模が推測できる。


  備後国渋川氏の年間収入高は,わずか数百石の規模であったとみられる。















 6  景 気 (おわり)