前へ |
渋川一族の物語 |
次へ |
博多の渋川一族は,この都市の活力を生かしきれず実力を蓄積できなかった。
渋川一族は,九州最大の先進都市に居ながら,大いなるチャンスを失っている。
備後国の渋川氏は,毛利氏や小早川氏とは全く規模を異にする小領主である。
備後国の渋川氏が,九州の渋川氏を支援することは,全く不可能なことである。
@ 朝鮮交易の成果 |
博多港は大陸への玄関であり,韓国釜山 とは一衣帯水である。(博多港中央埠頭) |
渋川満頼は,博多で,今川了俊の成果を受け継いで朝鮮との交易を続けた。
大内氏や小早川則平も,朝鮮交易を行っている。
求めた物は仏典,人参,布,虎皮等,提供した物は鉱物,工芸品,東南アジアの産物等であった。
倭寇に悩む朝鮮の状況と,交易を担う商人の成長,渋川氏の被官そして寺社の活躍があった。
30回余の朝鮮交易は,先進都市・博多を基盤にして,交易と呼ぶに相応しい内容であった。
渋川義俊が,少弐氏から博多を追放されると,一族は,交易の地の利を失った。(1423,1425)
A 御調別宮の規模 |
広島城を築いた毛利氏は,地頭と して相模国(厚木市)から入部した。 |
備後国渋川氏の所領,御調別宮(みつぎべっく)の境界を示す「八幡大証文」が残っている。
その区域について,その後,毛利氏が検地を行っている。(1591)
毛利氏の最盛期の状況を示すといわれる「八箇国御時代分限絵図」がある。
それからも,備後国渋川氏の権益のおよその規模が推測できる。
備後国渋川氏の年間収入高は,わずか数百石の規模であったとみられる。