7 同業他社(領主等)の動向も気になる。
 

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渋川一族の物語
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  南北朝の対立軸が失われると,西国では九州探題の明確な役割が消えた。

  九州その他の地域において,他領主の勢力が次第に渋川一族を凌駕した。

  九州探題,博多の活力,全国の所領,渋川一族の興隆に寄与していない。

  応仁の乱以降,各地の渋川一族は,連携することもなく,活動を衰退させた。

  東国から発進した渋川一族は,奮闘もむなしく,やがて乱世の西国に消えた。




@  御  調  別  宮

 



 
朱塗りの橋を渡って石段を登ると,
御調八幡宮の楼門があり,社殿がある。

広島県三原市八幡町
御調八幡宮朱塗りの橋

  備後国の御調別宮(みつぎべっく)は,神社の名称でもあり,荘園の名称としても使用された。

  神社としては,広島県三原市八幡町に,御調八幡宮として残る。

  御調別宮は,石清水八幡宮の荘園体制に組み込まれている。( 1158)

  平安時代の神像,鎌倉時代の仏典版木,文書に注釈を入れる角筆などが伝えられている。

  御調別宮は,1350年代に渋川直頼の所領となり,渋川一族が九州への出撃拠点とした。

  備後国の御調別宮は,全国で所領を失った渋川一族が,最後まで守った所領である

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A 備 後 国 尾 道

 



国宝の備後国浄土寺の多宝塔(広島県尾道市)浄土寺多宝塔

  備後国尾道は,風光明媚な天然の良港である。尾道には,高野山領大田庄の倉敷があった。

  海上交通の中継地として,備後国で最も繁栄していた地域である。

  九州探題の渋川義行が,備後国の守護としてこの地域に滞在し,九州への渡航を覗っていた。

  渋川義行は,備後国守護として,尾道浄土寺に,得良郷の地頭職を安堵している。

  福山市沼隈町の山南に,渋川氏の所領があった。渋川氏は,尾道市吉和の鳴滝城を築いたとされる。

  浄土寺の前の尾道水道の向いの島は,当時は,歌島とよばれた。

  御調別宮領内にある蓮台寺は,元はこの島にあり,加賀国から移転したものという。

 

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B 寺 院 ・ 神 社





  鎌倉時代,上野国で法然の浄土宗が広まっている。

  これは,京都六波羅の勤務のために上京した警護役の武士を通じて広まったものといわれる。

  上野国渋川郷周辺には,浄土信仰の広がりを示す「板碑,笠卒塔婆」などの石造物が残っている。

  渋川氏が関係した寺院として,御調別宮の領内に蓮台寺と廣福寺があり,福山市沼隈町山南郷に悟真寺がある。

  これらはいずれも浄土宗であり,彼らは東国で信仰した宗派を,引き継いでいた

  しかし,一向宗の勢力下にあった加賀国の所領の管理のために,渋川義陸は石山本願寺を頼った。

  加賀国への代官の派遣や,石山本願寺との連絡には,備後国浄土真宗光照寺が提供する海上交通が欠かせない。

  また,九州博多でも,渋川満頼が関わったのは,朝鮮との交易を担っていた禅宗寺院や宗像神社であった。

  この時代,有力な寺社が,交通・通信体系を担っていた。寺社を抜きにして,中世のビジネスは成り立たない

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C 安芸国小早川氏






 
小早川氏は右の高山を居城としていたが,隆景は
 左の  新高山に移した。(広島県三原市本郷町)

小早川氏新高山城址

  天文のころ御調別宮の小童(こどう)城主であった渋川義正の妻は,毛利元就の義妹である。

  毛利元就は,竹原小早川家に三男隆景を養子として送り込む

  その後,小早川隆景は,小早川家本流を相続し,新高山城に入った。

  小早川隆景は,名実ともに小早川家を代表する当主となった。(1551

  厳島の戦に勝利した毛利元就は,意気揚々と,小早川隆景の新高山城を訪問した。(1561

  この時、渋川義正夫妻も,親戚として招待されて,新高山城の宴席に列席している。

  渋川義正は,新高山城で、毛利元就やその家臣団と,得意満面で懇談したことであろう。

  そのとき,中国の覇者毛利一族と,名族渋川氏との間には,既に比較にならない実力の差があった。


  やがて戦国大名に成長する毛利一族と,まもなく没落する渋川一族の行く末を知る者はいない。

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 7  同 業 (おわり)