「みことばの宅配便」 Daily Manna

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。詩篇119:105

2015年11月03日
「清い心」

* ≪賛美頌≫詩24(旧855)*≪今日の聖句≫詩24:3-4

 どのような人が、主の山に上り/聖所に立つことができるのか。
 それは、潔白な手と清い心をもつ人。
 
*「どのような人が主の山に上り/聖所に立つことができるのか」との問いは、ルターが戦った良心の呵責からの解放を求める「罪の克服」の問題である。その対処にルターは悩み果てた。激しく悪魔と戦った。試練に遭った。それでも自分で自分の心をどう平和に保つことも出来なかった。悪魔の試練はそれほど人間にとって厳しい。

*「罪の克服」に対して今日の詩家は答えを出している。「それは、潔白な手と清い心をもつ人。・・・」と。「幸いなるかな、心の清い人々。その人々は神を見る」とイエスは9福の中で歌っておられる。心の清さとは、釈義書によれば二心なき心だと言われる。日本語で言う赤心、赤子のような心であろうか。迷いのない心、真っ直ぐな心、完全な心という表現も聖書にある。イエスが「思い煩うな」と言われたとき、それは「清い心」からの生き方であろう。イエスのはそのような清さから御父に向かって幼子のような純粋さで向かう心であった。

*心の清さ=純粋さ:この問題は聖書の民が神の前でたえず直面した問題であり、それに対する答えが聖書に散りばめられている。罪の克服は思いの段階での罪との戦いにおいて起こってくる。昔、神学校に笠利先生というラテン語の先生がおられ、ルターのローマ書講解7:7以下で「むさぼり」について、ラテン語でコンクピスケンティアということを思い起こす。それは心の内での「最初の傾斜、欲望、色欲」である。十戒の「むさぼるなかれ」は9戒10戒と二重の律法として「むさぼり」の禁止が律法の締めくくりとして強調されている。イエスも心での姦淫を戒められている。

*行動になる前の心での暴力・攻撃性が人類的集合無意識に根ざす罪である。主に助けを求めるのはその時であろう。主はその叫びを聞いてくださり、行動は清められる。悪魔に打ち勝つための最上の防御は悪魔への先制攻撃である。それは心の祈りによって防ぐ力である。

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