式文解説 Liturgy expositon

ルーテル教会では礼拝に式文を用い、唱和します。それは伝統に裏付けられた知恵の宝庫です。
しかしその意味が不明では心から唱和和することが出来ません。
そこで、式文に盛られている宝のエッセンスを解説するのがこのコーナーです。
毎週水曜日に連載します。
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2014年05月28日

48:「派遣の部」B:「ヌンク・ディミティス(今こそ去ります)」A:

 「主の救いを見ました」

*「今私は主の救いを見ました。主よ、あなたはみことばのとおり、僕を安らかに去らせてくださいます。」:「主の救い」は、シメオン老が讃嘆し、歴史の中に神が幼子の形で私たちの只中に来てくださったことを指しています。シメオン老は満たされ、主が為してくださった御業を賛美しつつ、主の御前に別れを告げます。

*これが礼拝式文に適用されることの意味は、礼拝のみことばと聖餐を通して私たちの只中に主が来てくださり、主が救いの御業を成し遂げてくださったことの賛美の心をもって礼拝の場から退出して、世に帰って行くことができるということです。

*みことばの説教が神のみことばを直接的に伝えることができればよいのにと願いつつも、必ずしも毎回会衆の心を満たすものでないことはたえず説教者に帰って来る課題です。

*しかし聖餐は「見えるみことば」と呼ばれ、信じる者に恵みをもたらす主のからだです。それがキリスト教の礼拝の原点です。説教は聖餐の前段としてあり、説教と聖餐とは本来一体であったのです。その事の根源的意味を再考し、その力を取り戻すべきです。キリスト教礼拝はみことばと聖餐の一体性において、主のからだに与かり、心と体と霊の全体で感謝と賛美を献げて、世に送り出される恵みの座です。

*「主の救いを見ました」の信仰を得て、シメオンの賛歌を歌って、礼拝の場から日常の生活の場に行きましょう。




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