
式文解説 Liturgy expositon
ルーテル教会では礼拝に式文を用い、唱和します。それは伝統に裏付けられた知恵の宝庫です。
しかしその意味が不明では心から唱和和することが出来ません。
そこで、式文に盛られている宝のエッセンスを解説するのがこのコーナーです。
毎週水曜日に連載します。
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45:「聖餐の部」G:陪餐
「恵みの食卓」
*食卓は交わりの場であり、聖餐は共同体の食卓である。わたしと神との個人的関係を重視するあまり、共同体性を見失ってはならない。
*その食卓の交わりは、この世においては決して皆に開かれてはなく、資格づけられている。それに対して、主の食卓は恵みの食卓である。恵みとは神の愛に基づいて全ての者に無条件で開かれている。そこから「オープンコミュニオン」という考えが出て来るのは自然な成り行きであろう。しかし私たちのルーテル教会ではその説を取らない。この世の現実のただ中になお存在する教会の秩序の故である。この世から神の国への過越しを祈りつつ、なお時を待たなければならない。私たちは歴史的存在である。
*いずれにしても、私たちは聖餐を通して生涯主の恵みの食卓に与かる者とされている。肉体の糧によって主は私たちの肉体的健康を支えておられるが、さらに、霊の糧によって霊的健康体を保つようにと、たえず命のパンを配給されている。霊的健康体はキリストとの交わりの中にあることにおいて保たれる。「私の記念としてこれを行いなさい」の「私の記念」は、主イエスが今ここに現臨されているとの感覚である。聖餐のパンとブドウ酒をいただくたびに、キリストが現臨され、その交わりのなかで私たちは魂の健康を保持される。
*宇土教会という熊本市近郊の小さな教会を牧会していた時、代議員の方が報告をなさり、「来週は聖餐式があります。主の恵みの座に共に集いましょう」と招きの言葉をいつも添えておられた。そのように聖餐を大事にする教会は小さいながらも見事に守られた教会でした。一月に一度、その教会で奉仕する度に平和を感じたのは決して偶然ではなかったでしょう。 |
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