「みことばの宅配便」 Daily Manna

あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。詩篇119:105

2014年10月31日
「真理はあなたたちを自由にする」

:≪今日の聖句≫ヨハネ8:36
 「だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

・神の義は、神と人間相互の義として、神の義でありつつ人間を自由にする人間の義でもある。その際、人間は自分の業から解放される。人間を縛り、裁く自分自身の業から自由にされて、もはや自分の業にこだわらなくてもよくなったのは、キリストの故である。キリストが私たちのために贖いの死を死んでくださったことによって、キリストにおいて神が私たちの中で恵み深い支配を貫徹してくださった。

・自分の業によって神の前に誇れる良い業を私たちはは悪魔の力に妨げられて果たし得なくされている。そもそも、私たちのうちに自分の力で自分を誇れるようにするべし、とする思いが誰から注入されたのだろうか?神はそのような事を決してお勧めにならない。人間が孤立した存在としての自分を意識し、自分の力で生きる以外に道を見いだせなくなって、自分自身の義を積まなければと思い立ったのはいつの頃からであったのか?人の世が砂漠のように荒廃し、誰も頼るべき者がないことを知るようになったのは、荒野の経験からであろう。

・だが、聖書の荒野の経験は単に人間を孤立化させる要因となっただけではなく、その逆に、何もないように見えるが故に、そこに与えられる神の恵みが十分であることを知る経験ともなり、その経験によって人は生きることが出来るとの確信を与えられた。その意味で荒野の経験は二重の経験である。苦難の経験とともに、また、そこに貫かれている神の恵みの経験であり、その意味で神の義の発見の瞬間が荒野にある。何もなしに神の子である特権を有していることの発見である。神は人間を、その初めから終わりまで、神の子として祝福し・守り・導いてくださるお方であることの発見である。「大丈夫!」の天からの声を聞く経験である。

・荒野での自由の発見。荒野でこそ見いだされる自由。それは、人間を神の子とする経験であった。荒野では人間は神の子としての自由の中を生きなければ、生きられない。奴隷のような拘束の中では命を保つことは出来ない。人間が人間らしく生きるために、人間は神の子の自由に与らねばならない。ヨハネ伝はキリスト・イエス、神の子にして人の子であるお方が共にいてくださることにおける自由を、荒野でのイサクとエサウの比喩をもって、自由の子と奴隷の子の対比において描く。自由は交わりの中にある。まことの神の子との交わりの中にのみある。奴隷には真の自由はなく、務めがあるのみである。自由なるお方との交わりにより、それを真似ることによって、私たちも神の子の自由へと与るのである。

◇「みことばの宅配便」は、御国への巡礼を共に歩む神の民に
主日聖句から日ごとの糧を分かつ祭司の務めとして発行されています。

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