
「みことばの宅配便」 Daily Manna
あなたの御言葉は、わたしの道の光 わたしの歩みを照らす灯。詩篇119:105
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「主を試すこと」
:≪第一日課≫:出エジプト17:1-7(旧122):
:≪今日の聖句≫出エジプト17:7「 彼は、その場所をマサ(試し)とメリバ(争い)と名付けた。イスラエルの人々が、『果たして、主は我々の間におられるのかどうか』と言って、モーセと争い、主を試したからである。」
・近代は方法論的懐疑によってその扉を開いた。教会の権威に唯々諾々と従っていた中世を打破したのは宗教改革であったが、それは自分で考えること、悩むことから始まったのである。
・しかし、「主を試す」ことはそれとは次元の違う事である。主を試すことは、自分の立つべき足下の大地をなくすことである。「たとえ全世界を得ても、自分を失くしたら、何になろう。」と主は言われた。外部の世界を疑うことはいくらでもしてよいが、主を試すことは、自分を失くすことなのである。主を試すことは主との関係のそれまでの信頼が崩れ、神と民との一体性にひびが入り、隙間が生じ、亀裂が走り、主と我はもはや一体でなくなることである。こうして、人類の不幸の種が蒔かれた。
・「主を試みる」がそのような重大事であることの認識のないままに、我々は「主を試みる」。それが悪魔の誘惑である。簡単なこと、たいしたことでないように見せかけ、役に立つこと、魅力的なことのように思わせ、後先を考えることを止めさせるのである。それに引っかかり騙され、「果たして主は・・」と疑うことが「若い時の過ち」である。
・民がまだ若かったとき、不信の種が苦境の最中で彼らの心に蒔かれた。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」。信仰(信頼)の試練は目に見え現実からやってくる。これが神との契約関係の現実か? 苦境と悲惨ばかりではないか。何故、我々がこのような目に遭わなければならないのか? 「果たして、主は本当に我々の間におられるのだろうか?」。悪魔の囁きは巧妙に、外からではなく、内から自然に湧き上がるように見せかける。それは自分の弱さだと人は言うが、そうなったのは神との関係が失われた結果である。だから解決策は唯一、主との関係回復にあり、悔い改めにある。 |
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主日聖句から日ごとの糧を分かつ祭司の務めとして発行されています。
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