主日礼拝説教 Sermon
  
  三原と福山で行われる主日礼拝説教です。
★福山教会 ☆三原教会

主の洗礼主日 「水の中からの創造」
 2015年1月11日(土)福山教会 
 2015年12日(日)三原教会 
顕現節第3主日「天使の昇り降り」
 2015年1月18日(土)福山教会
顕現節第4主日「恵みの伝道者」
 2015年1月24日(土)福山教会
 2015年25日(日)三原教会 
顕現節第6主日 「心身一如」
四旬節第2主日:「十字架:命に導く道具」
 2015年2月7日(土)福山教会
 2015年2月8日(日)三原教会
四旬節第3主日:
 2015年3月7日(土)福山教会 「イエスの熱意」 説教者:鐘ヶ江昭洋牧
 2015年3月8日(日)三原教会 「心の神殿」説教者:谷川卓三牧師
四旬節第4主日:「断罪からの解放」
  2015年3月14日(土)福山教会
  3月15日(日)三原教会   
四旬節第5主日:「十字架の栄光」
  2015年3月21日(土)福山教会
受難主日:
  2015年3月28日(土)福山教会「神の棄民」
 2015年3月29日(日)三原教会「十字架の恵み」
◆復活主日:「復活の主との邂逅」
 *2015年4月4日(土)福山教会
 *2015年4月5日(日)三原教会 
◆復活後第1主日:「和解のための派遣」
 *2015年4月11日(土)福山教会
 *2015年4月12日(日)三原教会 
◆復活後第2主日 説教題「主の平和」
  *2015年4月18日(土)福山教会
 *2015年4月19日(日)三原教会 
◆復活後第3主日 説教題「一人の羊飼い、一つの群れ」
  *2015年4月25日(土)福山教会 
  *2015年4月26日(日)三原教会 
20:昇天主日  「昇天の後に来るもの」
  ★2015年5月16日(土)福山教会  ☆2015年5月17日(日)三原教会 
21:聖霊降臨主日  「真理の霊」
  ★2015年5月23日(土)福山教会  ☆2015年5月24日(日)三原教会 
23:聖霊降臨後第2主日 「信仰の力」  ★6月6日 ☆7日
24:聖霊降臨後第3主日 「命の木」  ★6月13日 ☆14日
 ★2015年6月20日(土)福山教会  ☆2015年6月21日(日)三原教会 
25:聖霊降臨後第4主日  「嵐を鎮める」  ★6月20日
25:聖霊降臨後第4主日  「嵐を鎮める」  ☆6月21日
★2015年6月27日(土)福山教会  ☆2015年6月28日(日)三原教会
26:聖霊降臨後第5主日  「われらの強き守り主」  ★6月27日
★2015年7月4日(土)福山教会  ☆2015年7月5日(日)三原教会
27:聖霊降臨後第6主日  「「使徒の証し」  ★7月5日
2015年7月11日(土)福山教会
28:聖霊降臨後第7主日  「恐れから解放されて」 

★2015年8月22日(土) ☆2015年8月23日(日) 聖霊降臨後第13主日 「天の糧」
★2015年8月29日(土) ☆2015年8月30日(日) 聖霊降臨後第14主日
★2015年9月5日(土) ☆2015年9月6日(日) 
★2015年9月12日(土) ☆2015年9月13日(日):聖霊降臨後第16主日 「イエスの弟子となる」
2015年9月19日(土) ☆2015年9月20日(日):聖霊降臨後第17主日 「神の知恵」
2015年9月26日(土) ☆2015年9月27日(日):聖霊降臨後第18主日 「みんな」
2015年10月3日(土) ☆2015年10月4日(日):聖霊降臨後第19主日 「単純な生活」
★福山:2015年10月10日(土) ☆三原:2015年10月11日(日):聖霊降臨後第20主日 
★福山:2015年10月10日(土) ☆三原:2015年10月11日(日):聖霊降臨後第21主日
宗教改革主日★福山:2015年10月17日(土) 「真理はあなたを自由にする」 
      ☆三原:2015年10月18日(日)「主の賜る自由」
全聖徒主日☆三原:2015年11月1日(日)「死人の復活」 
聖霊降臨後第23主日☆三原:2015年11月8日(日)「最高の戒め」 

==========アーカイブ=============
《2014年分》

*受難主日説教:「私たちのための主の十字架
*復活主日説教「心を高く上げよ」
*復活後第1主日説教:「主は私の右に」
*復活後第2主日説教:「心の目が開ける」
*復活後第3主日説教:「主は善き御方」
*復活後第4主日礼拝:「道・真理・命」
* 復活後第5主日「主のみ名によって」
*聖霊降臨祭 主日礼拝::「主のみ名によって」
*聖三位一体主日説教「三つにして一つなる栄光の主」
*聖霊降臨後第2主日「弟子は師の如く」
2014年6月29日、三原教会特別集会 浅見正一牧師を迎えて:「なんとも不思議な」
*2014年7月5日(土)/6日(日)聖霊降臨後第4主日 説教題:「招きの主」
*2014年7月12日(土)/13日(日) 聖霊降臨後第5主日「種蒔く人」
*2014年7月19日(土)/20日(日)聖霊降臨後第6主日「麦と毒麦の混在する世にあって」
2014年7月26日(土)/27日(日)聖霊降臨後第7主日「知恵の国」
2014年8月16日(土)/17日(日)聖霊降臨後第10主日:「イスラエルとは誰か?」
*2014年8月30日(土)/31日(日)聖霊降臨後第12主日「世のための十字架」
*2014年9月6日(土)/7日(日) 聖霊降臨後第13主日 「愛徳の模範」
2014年9月20日(土)/21日(日) 聖霊降臨後第15主日 「慈しみ深い神」
*2014年9月27日(土)/28日(日)聖霊降臨後第16主日 「悪に打ち勝つ力」 
*2014年10月4日(土)/5日(日)聖霊降臨後第17主日  「隅の親石」
*2014年10月11日(土)/12日(日) 聖霊降臨後第18主日:「神の国は婚礼のようである」
*2014年10月18日(土)/19日(日) 聖霊降臨後第19主日 「この世の国と神の国」
2014年10月25日(土)・26日(日)宗教改革主日:「真理はあなたがたを自由にする」
2014年11月1日(土)・2日(日)全聖徒主日:「幸いなる人生」
2014年11月8日(土)・9日(日)聖霊降臨後第22主日:「あなたがたはその時を知らない」 
2014年11月15日(土)・16日(日)聖霊降臨後第23主日:「神からの委託」
2014年11月22日(土)23日(日)聖霊降臨後最終主日 「最後の審判」
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2014年11月29日(土)30日(日)待降節第1主日 「主を待ち望め」
2014年12月6日(土)7日(日)待降節第2主日 「聞け、悩める民よ」
2014年12月13日(土)14日(日)待降節第3主日 「神の証し人」
2014年12月20日(土)21日(日)降誕主日 「恵みの神」
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≪2014年3月22日(土)・23日(日)≫ 四旬節第3主日:福山・三原
説教題:「命の水の泉」
 詩編95(旧933)出エジプト17:1-7(旧122)ローマ5:1-11(新279)ヨハネ4:5-42(新169)

@サマリアの女とイエスの出会いは「命の泉」を求める人間と、それを与える唯一の方である神との関係を問う物語である。
・それ以前の状態として、人間の分裂状態がある。今週一貫して流れているテーマとして、主を試みた結果の人類総体が一方にある。
・賛美頌の「心の迷う民」。神との関係は歪んでしまった。顔と顔を合わせることができないものとなった。それは創世記3章の蛇の誘惑以後の生である。信頼すべき方への不信の種が蒔かれ、その罠にまんまと引っかかり、主を試みた結果である。すなわち、「心を頑なにする」「主を試みる」「主を厭う」生である。彼らについて、主は「心の迷う民」と呼ばれる。そのような生き方に憩いも安らぎもない。神との平和が無い。

・第一日課の「主を試みる民」。「主を試す」ことは自分の立つべき足下の大地がなくなることになる。「たとえ全世界を得ても、自分を失くしたら、何になろう。」。外部の世界を疑うことはいくらでもしてよいが、自分自身を疑うことは存在そのものを否定することになる。それまでの信頼関係が崩れ、神と民との一体関係にひびが入り、隙間が生じ、亀裂が走り、主と我は一体であることを止めてしまう。
・「主を試みる」とはそのような事であるが、問題の重大性の認識のないままに、我々は「主を試みる」のである。それが悪魔の誘惑である。簡単な、たいしたことでないように見せかけるのであり、それが役に立つこと、魅力的なことのように思わせ、後先を考えることを止めさせるのである。それは「若い時の過ち」である。

・民がまだ若かったとき、不信の種は苦境の最中に彼らの心に蒔かれた。「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」。苦難は人間に対する試練である。信仰の試練は目に見えるものからやってくる。これが神との契約関係の現実か? 苦境と悲惨ばかりではないか。何故、我々がこのような目に遭わなければならないのか? 「果たして、主は本当に我々の間におられるのだろうか?」悪魔の囁きは外から来るのではなく、内から湧き上がる。自分自身しか見えなくなる。主なる神が見えなくなる時に。自分の弱さだと人は言うが、逆である。
・第二日課の「不信心な者」。「わたしたちがまだ弱かったころ」は、≪第一日課≫の荒れ野で主を試みた民と共通する心の状態を経験しているパウロ自身の事を反映している。「弱かったころ」は「わたしたちがまだ罪人であったとき」と言い換えられている。「弱さ」は「罪」の結果である。人間は罪を犯して弱くされた。この世の弱さは罪の世以外の何ものでもない。それが人の世の根本規定である。

@そして福音書の「サマリアの女」の履歴がそのことを端的にあらわしている。誰にも言えない恥の歴史である。サマリアの女は人間誰しもが陥っている罪の状態を代表している。
・神と人間はかつて一体であったが、やがて人は神から離れて独りとなり、今や神のことを全く知らない「異邦人」となった。
・その「神にとっての異邦人」、すなわち、罪ある人間にとって神との出会いは、非常に新鮮である。自分自身に蓄えられたにごったたまり水ではなく、たえず湧き出る「生ける水」である。神の与えるその水によって人間の分裂状態における渇きは癒される。

@「イエス・キリストにおける神の真理の美」という言葉が「主日の祈り」の中にある。
・サマリアの女の外面的な美に多くの男たちが誘惑され、騙された。それと対照的に、「恵みと真理」(ヨハネ1章)から湧き上がる美である。真の美は、神から来る。人間を自由にする真理はイエス・キリストを通してくる。それは恵みに満ちた真理である。聖霊においてイエス・キリストより来る真理は人間の命である。命こそ実に美しい。真理の美しさである。「真理はあなたを自由にする」。命の泉はイエス・キリストにおける神の愛からたえず湧き出る。それは信頼する互いの一致の交わりの力である。それが「信じる力」である。


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